2014年02月16日

音の共有化

先月行なったトロンボーン12重奏のコンサートで演奏した曲を中心に、数日前にそれぞれ担当しているパートをシャッフルして音を出してみた。
案の定サウンドがかなり変わる。同じ楽譜、人数で演奏するのにだ。だからこそ面白いのだ。
基本的にボクは音が一番高いパートを担当することが多いので主旋律を奏でることも多い。一般的に聴衆ははじめに旋律に耳がいってしまう。これは当然のこと。それ故にリードパートの表現が全体のアンサンブルの印象を決めてしまうこということは否めない。それ故にこのリードパートがどっちつかずの演奏をすると全体のフォーカスがぼやけてしまう。かといって勝手に演奏すればいいというわけでも決してない。
今回の練習でもレコーディングやコンサートの現場でトロンボーンが数人いる時は積極的にリハーサルの時にポジションをチェンジするようにしている。リードをどういう風に演奏するかを聞けばその人の「音楽性」「性格」が如実に現れるのでその人を理解するのにとても役に立つ。本来は内声部を受け持つパートででもきちんとそれらをキャッチ出来ればいいのだが実際のところ「リードに合わせる」ということに主眼を置いている人たちが多くて、「何を考えている」かが分らないことも多い。
時として内声部を演奏する際に「協調する」ために自分が「主張しない」と勘違いしているように思える人もいる。もちろんそれはアンサンブルする上で誤った考えたかだと思う。「共有」こそがアンサンブルにとって必要なことだと思う。

今回トライした曲の中でも自分のオリジナル曲やアレンジは多層的な構造の曲が多く、実は同時に複数の旋律が存在したり、1つのメロディをリレーする場面も多く
通常の作品よりも個々がきちんと主張した演奏をしないと面白さが半減する。
今回自分が内声部のパートを積極的に演奏することでいろんな問題点が分ったし、作者としてはもっと内声部のパートがよりメロディアスであるべきだと思ったし、多分他のメンバーもそう思ったと思う。(そう願いたい。)

蛇足だが別の視点から見る場合、だからこそ編曲する人は全てのパートをメロディアスに各必要があるということも言える。結果的にその時間軸で同じ「音程」「音価」の音が鳴っていても、それぞれに振り分けられて作られたラインがメロディアスの方が演奏者のやる気を強くし、結果的に単純に機械的に振り分けられた非メロディアスなフレーズを演奏させられる時よりも(絶対に)数倍いい演奏を提供することが出来る。


また書き手は具体的にそれぞれの場面の持つ「意味」「イメージ」を言葉で演奏者に示すことが、とても大事だということも分った。
長年やってきている「Solid Brass」「村田陽一オーケストラ」とかそれに付随する仕事ではメンバーにその都度言わなくても、皆が同じベクトルに向けて演奏してくれる。そのことで実に楽をさせてもらっているし、嬉しい限り。これはひとえに「信頼関係」と直結していることだと思う。
そういう関係にない場合はやはり具体的に言葉で指し示す必要がある。それは単に楽譜に「アーティキュレーション」や「ダイナミックス」を書き示せばいいかといえば、そんなことはない。「アーティキュレーション」や「ダイナミックス」というのは一見客観的なものかといえばそんなことはなくて実に「主観的な」イメージのものだとボクは現場を見て来て常々感じている。何か必要かというと、やはりそれはその「音」の共有化、それを奏でる為のエネルギーのベクトルを揃えるという実に精神的なことを優先すべきだと思う。

posted by YM at 00:30| 東京 ☁| 日常 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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