2019年05月23日
2017年05月16日
2017年04月08日
コピー
実際に見てみないと分からないこと沢山。
音量に関してだとサックスのジョーヘンダーソン。あんなに太くてダイナミックなのに生音小さい。ベルをマイクにはりつくようにして吹いてるからああいうカンジになるとの知人の弁。
僕らが目標にしてきた欧米のホーンセクションも日本のそれとは違って、もっと柔らかくてファットで沢山倍音があって響きがある。
CD化されたセクションの音は演奏後にコンプレッサーやリミッターなどの電気的後付け処理が施されているので生音のそれとは違う。だからCDの音を聴いて全てを判断するのはかなり危険。サンボーンさんはその最たるケース。
やはり生で聴かないとね。その空気振動を共有しないとね。
演出
世の中、間接的にキャッチする情報は大なり小なり「演出」されていて、この「演出」というフィルターを通してそれを触れて、それを感じ、それを認識する。場合によっては「事実」と反した印象を、生み出す「演出」も少なくない。厄介なのはこの「演出」された情報が対面で伝わるならまだしも、ネット上にばら撒かれることでそれが恐るべき速さで広範囲に伝播されてしまう。
情報量が多い中では「真偽」を見極めながら、自分の必要なことを取り出す能力が今の世の中には必要不可欠。
SNSを通じて驚異的に多種雑多な方々とオンライン上で繋がることが出来て、とてもいいことだと感じるとともに、オンライン上だけの情報でその人のパーソナルやスキルのイメージを無意識のうちに固定化してしまう怖さがとてもあるのが恐い。
出来る限り自らのフィールドワークをするべきだと痛感。特に人とのコミュニケーションは対面に越したことはない。その人の「音楽」も言わずもがな。
ソロパフォーマンスのやりかた
場合によってはもっとSE的なものを素材として使ったり、テンポのないもの、テンポが揺れるものなんかをループしたら面白そう。でもこういうアプローチで決して「ノイズミュージック」にならないことが自分の嗜好。
「巨匠」の共通点
その1つが、その方々のキャリヤ初期には自分に対する投資を積極的に行なって自分の興味のあることをキャッチするための「アンテナ」の感度を常に高めていて、それら情報を一旦自分に取り込んで「自分」のものとしてアウトプット出来るようになって世間が認めたあたりから、意識的か無意識的なのかわからないけれども、インプットにおける選別機能の強化で制限をかけるのか、「アンテナ」の感度を弱めているというカンジがする。
いずれにせよ、あることを持続するための「体力」は加齢によって弱まることは明白で、逆説的に言えば、いかに短期集中するために、それ以外の時間を「楽」に、あるいは「緩めて」過ごせるかにかかっているようにも見える。「OFF(休日ということでなくあくままでも精神的な)」を作るのがあまり得意でない自分にとっては耳の痛い話しでもあります。
今を一所懸命生きないとなぁ
ボクが「音楽」に偏ることなく向き合うことが出来るようになったのは20代後半に「じゃがたら」というバンドに参加したことが大きなきっかけだ。バンドとしてのサウンド、エンターテインメント、ポピュラリティのバランスが良くなり、さてこれからだ!というタイミングでメンバー3人が亡くなってしまうわけだが、その時にボクの喪失感といったらない。
この身近な仲間が志半ばで逝ってしまうという状況の中、色んなことを考えた。
「生」を受けたものはいずれ必ず「死」という現実を免れることは出来ない。やはり生きているうちに自分のやりたいことをやっておくべきだと常日頃から思っている。知人の訃報を聞く度にそう思い、それをこういったポストに書き記している。書き記すことで自分に対してそれを言い聞かすという意味が大きいのだと思う。
我々表現者は自分の死後も、自作や記録メディアに遺されたパフォーマンスが自分の分身、また子供としてフォロワー達に影響を与えることが出来る可能性を持っている。それはとても有り難いことだ。
でもやはり自分が生きている間に、そういう「実感」を味わいたい。
いいものを「遺す」という意識も大事だけれども、やはり常に「今」を懸命に生きないといけないと思う。(まぁ、「今」を懸命に過ごすことでいいものを「遺す」という結果を導くことになるのですが)
いずれにせよ、焦らず、今を一所懸命生きないとなぁ、せっかく奇跡的に51年間も「生かさせて」いただいているのだから。
2017年04月06日
「あーもうどーでもいいや」
時と場合によっては「あーもうどーでもいいや」っていう風に思うことが出来るテクニックはやはり必要なんだなぁと。
(バカ)生真面目(堅物ともいう)故に、そこが欠落気味の私。物事に対してマクロ、ミクロ、両方の観点で見ないと実像を掴めない。
人それぞれ価値観が違うということをついつい忘れてしまう瞬間がまだある。相手に対して、自分の価値観の押しつけは必ずしも
それがその人にとって正しいわけでもなく。まぁ何でも「押しつけ」られて気持ちのいい人なんて誰もいない。
老眼は目の焦点を合わせる筋肉の力の低下が原因らしく、それを
防ぐ為には交互に近くを見たり遠くを見たりすることでその筋力の低下を防ぐことが出来るそう。
長時間、PC作業をする為に最近ではPC眼鏡を着用しているが、試しに眼鏡を着けずに作業したらめちゃくちゃ目が疲れた。知らないうちにPC眼鏡を着けているということが当たり前のことのようになっていると感じた。
大概のことは正反対のものと1つの対になっている。その対になっている対極のどの位置にそれらがあるかだけのこと。これはとても相対的なこと。
【備忘録】
(演奏に関して)
自分の力3割程度使わずに7割で演奏する方が音色、音質、ニュアンスがより良く発揮出る。
それゆえに絶対量の底上げが必要。
(編曲に関して)
編曲する時に最も大事なのは幾つかの選択肢の中から最も適した「音」を選びプレイヤーが演奏することをワクワクさせるスコアを提供する。(プレイヤーが楽しめずに奏でた「音楽」をオーディエンスが楽しめる確率は極めて低いと思う)
選んだ「音」が本当に必要なのか?を常に問う。
理論上間違っていないものが全て「正解」とは言えない。
スコアに書かれたその音に「必然性」がないと、それは最良の「選択」とは言えない。
過去の優れた編曲者は皆、小編成ででも和声の豊かな立体的なオーケストレーションをし、プレイヤーに演奏することをワクワクさせるスコアを提供する。こういうプレイヤーの「気分」が全体の演奏に多く反映される。「おれ一人くらい、このパートを演奏しなくても体制に影響ないんじゃない?とプレイヤーに思わせるスコア書いてはいけない。
例えばそれを演奏するプレイヤーとの信頼関係、それに伴う「出音」が。
「がならない」こと、そして「おおらかに」
貞夫さんのビッグバンドに於いて、常に貞夫さんがメンバーに対してディレクションすることは一貫していて、音量が大きくても「シャウト」しないこと」「がならない」こと、そして「おおらかに」。
それらを留意して演奏すると自然と無駄なチカラが抜けて音が「響く」ようになると実感します。
毎回、貞夫さんのカウントによって曲がスタートするのですが場合によってはかなり同じ曲でもテンポが違うカウントになったりします。
特に今晩演奏した「Eye Touch」は今までにない程のスローテンポでした。普通は曲のイメージが大きく変わってしまって良さが半減してしまいのですが、今回のイエロージャケッツのリズムセクションはカウント時と同じテンポでそのテンポでの最適なグループを提供することでこの曲の新たな魅力的な表情を見ることが出来ました。このカンジがとても「Jazz」だと感じました。
レパートリーの殆どが貞夫さんのオリジナル曲でしたが、貞夫さんのメロディがテンポを限定しないフレキシビリティ溢れる曲だからというのも大きな要因かも知れません。
ブラジルテイストの「Simpatico」での貞夫さんのビートよりもちょっと早いタイミングで歌うのは、正にジョアンジルベルトの「あれ」と一緒。(歌う=レイドバックする)の反対のアプローチです。
まだまだ学ぶことが尽きません。
情報量で勝負するんじゃなくて
そろそろ「解像度」を追求するのではなくて優れた墨絵のような単一色でどれだけ「立体的」に表現出来るかを追求する時期にきているような。
シンプル
金管楽器を演奏することに関しても知識を持たない子供たちの方が素直に「音」を出せたりするのもそれが原因なのだろう。
ミクロな視点でしかモノを見ることしか出来なくなったら一度遠くからそれを見てみると改めてその本質が見えることもあるだろう。
逆説的に言えば複雑に見えるモノをいかにそれを分解して「シンプル」にする能力が必要なのかもしれない。
簡単なことを難しそうに説明するよりも、難しそうに思えることをその知識のない素人に分るように説明するテクニックの方が優れているし、そうあるべきだと常々思う
悪い「癖」「習慣」を直すのはとても大変。
それを正すためには一々シンプル且つゆっくり再確認しながら正していくしかないのだと思う。何事も。