2016年04月30日

レクチャー

【全日本ブラスシンフォニーコンクール課題曲の講習】

今回の課題曲はグレンミラー「ムーンセレナーデ」です。前のポストにも書いたように演奏者がある程度選択出来るような編曲になっています。
故にスコアを読むのがあまり得意でない指導者の方にはカスタマイズすることのハードルが高く感じてしまうかもしれません。(もちろん書いてあるものをそのまま演奏するのでも十分に楽しめる内容になっていると思います。)
この曲はミディアムテンポのスウィングとボサノバのリズムで書かれています。この「スウィング」はジャズ特有のいわゆる「ハネる」リズムです。吹奏楽でもこういったリズムの曲を演奏する機会はあると思うのですが、普段からジャズを演奏している我々からすると、吹奏楽で演奏する「ハネ方」はかなり奇異に聞こえてしまっていて、「ジャズ」のそれとは異なっています。
でもこれはキチンと「ジャズ」のアーティキュレーションを体系化して説明すればおそらく30分で理解出来るようなことだと思います。
課題曲のカスタマイズのやり方、ジャズ、ポップスのリズムの捉え方などを一度、(指導者も含む)参加者にむけた講習会を実施したら、かなり「ムーンセレナーデ」がジャズっぽくなったり個性的になったりすると確信しています。
個人的には講習会を開きたいなぁと思っているので、ちょっと運営サイドでこの案件を揉んでみたいと思います。



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2016年03月01日

相手に伝える、届けること。

一つ前のポストに関連してですが、マイクを使ってPAするということが必須ということではなくて、マイクを使わざるをえない会場ではマイクも楽器の一部として捉えるべきだということでした。

「音」はいわゆる空気振動です。楽器が奏でた「音」が「空気振動」というエネルギーに換わるので、その振動が伝わらねば意味が無いということですよね。大きな会場であればあるほど、周りの楽器の音が大きければ大きいほどマイクを使ってアンプリファイドすることが必要になるのは当然です。

でも逆に狭いジャズクラブなどは PAを使わず生音で演奏べきだと思っています。この狭い空間でマイクを使わなくてはいけない状態は決して各楽器のアンサンブルがいい状態だとは言い難いと思います。

それはドラマーが大きく演奏しすぎる、ギター、ベースのアンプの音量が大きすぎることに起因することが多いようです。

小さな空間で空気振動を発生させるのと広い空間でそれをするとでは同じ「音量」で演奏していいわけありませんよね。

ダイナミックスをきちんとコントロールしてるドラマーと演奏すると本当に楽しいですし、イマジネーション、アイディアも演奏中に湧きますし、何しろ疲労度が低いです。

でも自分の発信しているものもの(音、思い)が伝えたい相手(オーディエンス、共演者)に伝わっていなかったら発信する意味がないと思うので伝えたかったら、そのための術をちゃんと身につけておく必要があると思います。そしてそれは状況によってその方法は変わってくると思います。

「生音で空気振動が伝わないような環境、キャパシティの場所であるならば、音を届けるためにPAは必須。だからこそマイクの使い方等含めてそれらの知識を持つことも必須。」という例を挙げましたがこれって自分の何かを相手に伝えるというコミニュケーション論にも通ずるところがあるなぁと最近思っています。

話は脱線気味ですが、私はPA至上主義ということではなく、基本はアコーステック派ですので。(念のため)


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2016年02月29日

マイクも楽器の一部

楽器の生音が客席まで届かないような大きなコンサート会場やスタジオでは(ライン楽器以外の)生楽器はマイクを通し、アンプリファイアされてPAスピーカーからその音を鳴らしているわけです。
いくら大きな生音を出してもマイクでその音を拾わなければ当然PAスピーカーから音は出ません。

つまり楽器から出る「振動」をマイクにちゃんと入れないとせっかくいい演奏をしてもオーディエンスにはそれが伝わりません。
また、たとえちゃんとマイクに音を入れても楽器をマイクの距離感、角度が違うだけでPAスピーカーから出るそれらの楽器の「音色」「音質」がかなり違ってきます。
場合によってはフレンチホルンを吹いているにまるでトロンボーンのような「音」になってしまうことなど日常茶飯事です。

つまりマイクと楽器の距離は楽器、マウスピース等のマテリアルに関する微調整よりも「音」に影響します。

自分のマテリアルについて常に神経質になっているのに自分の目の前にあるマイクに無関心なんてのを結構現場で見ます。

特に同じ楽器が複数あるような編成(オーケストラとかビッグバンド)における楽器とマイクの距離というのはとても重要で、各セクションのバランスに直結します。
トランペットやトロンボーンのように音の出る「ベル」と「マイク」が自分の目から同一線上にある場合、その「距離」を視覚的に確認するのは殆ど無理です。

よって真横から第三者に見てもらって同じ楽器同士の距離を測ってもらうことを強く勧めます。

マイクとベルの距離が違うと音量だけでなく「音質」「音色」が大きく変わってしまうのでセクションとしてのまとまりを求めるためにはその行為が必須だと思います。
ステージ上ではバランスがいいのに客席ではバランスが悪いというのは間違いなくこの「距離」の問題だと思います。

PAを使って成立する音楽に関しては目の前にある「マイク」も自分の楽器の一部という認識が必要だと思います。

いわゆるPAを一切使わないクラシックは演奏するホールも楽器の一部という認識があることは言うまでもありません。

せっかくいい生音を吹いているのであれば、それをそのまま客席に届けたいですよね!



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2015年11月10日

ポップであること。何も無いところからは何も新しいものは産まれないということ。

「ジャズ的思考」と「クラシック的思考」あなたはどちら?


これらのことを普段から考えている身としては、「正誤」はともかくなかなか興味深い記事。
シュラーを中心に意図的に造られた「第三の流れ」(Third Stream)という言葉?カテゴリー?
マイルス、JJ、ジョンルイス,デイブブルーベックなども巻き込んで、このコンセプトで数枚アルバムをリリースするものの、結果的にこの「流れ」が定着することはなかった。
20代の私にとって、とても魅力的だったコンセプトだったのだけれど、当時の私にはあまり刺激的ではなかった。
それでも中にはジョンルイス「Jazz Abstractions」のような刺激的な作品もあるのだけれど、とても「実験的」であることは拭えない。
この手のカテゴリーが根付かなかった理由の一つは「popularity」の欠如だと個人的に思う。
拡大解釈でマイルス〜ギルの一連の作品「Miles Ahead」「Porgy and Bess 」「 Sketches of Spain」辺りを Third Streamというのならばこれは例外。これはプロデューサーのテオマセロの功績が大きいとも思う。(「 Sketches of Spain」に関してはクラシックというよりも民族音楽とのミクスチャーだと思う。)

記事中にある下の一節はかなり共感出来るというか、いつも自分自身が思うことです。

「今でこそ、即興演奏は私にとって直感的な行動になっていますが、それを直感的にするために、長年の演奏で得てきたすべてのリソースをかき集めているのです。学校で習った音楽の知識、私なりの音楽の歴史的理解、そして、演奏する楽器の技術的な理解のすべてをです」
『Thinking in Jazz』Paul Berliner著


何も無いところからは何も新しいものは産まれないということだと思います。




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2015年09月03日

常に同士でありライバルであるべき

資料として渡辺貞夫さん1980年@武道館コンサートの映像を観る。

参加メンバー

Richard Tee, Steve Gadd, Eric Gale, Ralph MacDonald, Anthony Jackson, Jeff Mironov and Dave Grusin​に東京フィルハーモニックオーケストラ(リードトランペットにJohn Faddis)

という布陣。

しかもこの武道館は3日間行われていて、その内の2日間のコンサートの模様をHow's Everythingというアルバムとして発表されています。

このコンサート以前も今後も1人のジャズミュージシャンが武道館で3日間単独公演をすることはないでしょう。

前人未到の快挙だと思います。

これには貞夫さん本人の実力、タレント性は必須ではありますが、それをサウンド面で全面的に支えていたDon Grusin、制作、運営面で支えたスタッフワークは成功の為の不可欠な要素だと思いました。


夜になって今年の前期に音大で教えているアンサンブルのクラスの生徒たちとのお疲れさま会でした。


貞夫さんと僕は世代でいうと「親子」です。

僕と今日の生徒たちも「親子」の年格好です。


でもお互いがプロの演奏家として同じ「板」に上がる以上は常に同士でありライバルであるべきだと思っています。

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2015年05月18日

「絶対値」「基準値」

ピアノのように音程が可変しない楽器が含まれない編成(バンド、アンサンブル)の中で演奏する場合、管楽器(弦楽器もか)奏者は合奏中にチューニン グメーターを見ながら演奏すべきではない。バンド自体が段々音程が上ずることなんてのは周知のことなので、それと無関係にただ「441」に合うように演奏 すれば周りと合うわけないわけで。メーターとにらめっこする「視覚」によって合わせるんじゃなくて、あくまもで周りの音を「聴覚」を使って合わせるのが、 最も理にかなっていることですよね。
スマホなんかのアプリでチューナーがあるくらい便利な世の中ですが、使いようによっては自分の本来持っている「聴力」「音感」という能力を鈍らせる危険性を孕んでいると警戒したほうがいいかも。

音程もダイナミックスもアーティキュレーションも、とどのつまり「相対的」なもの。何が「絶対値」「基準値」なのかを誤ることは音楽の土台を誤ることに通ずるのかも。

私感なり。



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2014年09月15日

昭和の番組

ボクが高校生だった頃、『ヤングおー!おー!』という番組がありました。桂三枝(当時)が司会で明石家さんま達がまだ若手ということで好き放題やっているホールでの公開録画番組です。基本は音楽ものとしては歌謡曲中心なのですが、「スペクトラム」とか「生活向上委員会」も出演して、それを画面で見たボクは暫し呆然でした。(それぞれ違う理由で)
そのころはクラシック少年だった私の方向性を大きく狂わせるきっかけにもなりました。その頃の番組にはすごいパワーがあって、そういう番組を観ていた人たちにスゴく影響を与えていたと思います。(ボクもその1人)今もああいう番組があるといいなと思います。

先日、仕事場で「日本人らしい」音楽ってどんなんだろう?我々、日本人の奏でる「音楽」って他の国のそれとどう違うんだろう?例えば諸外国産のジャズスタンダード曲やクラシックを日本人が演奏した時、原産国のそれとどう違うんだろう?っていうことについて、みんなで考えてみました。我々、管楽器は常に「タンギング」という言語発音に近い動作が演奏上必須なので、自ずとそれらの母国語と演奏が大きく関係があると思います。
ドイツ語圏のプレイヤーがジャズ曲を演奏するとアメリカの「それ」とは違うということはボクにでも分ります。(ちなみにボクはドイツっぽいジャズも大好きです。)だから、例えば日本人が演奏する欧米の曲はどんな風に聞こえるのかとても興味があります。
自分のルーツにない音楽を奏でる場合、やはり最初は模倣というカタチで勉強していくわけですが、もうそろそろ、その手の音楽を演奏するんでも、「自分」らしい演奏をすることを心がけるような段階に来ているようにも思えます。今は情報が豊富だから細部にわたって模倣することが安易だと言えるので「クローン」を作りやすい環境だと思います。
昭和の頃は「模倣」するのでも情報が少ないため、あるいは演奏スキルがまだまだ欧米との間との隔たりが激しかったので、そこで見よう見まねでやった結果が1つの「オリジナリティ」を産んだのかも知れません。
先出の「生活向上委員会」を筆頭に「中央線ジャズ」というのは正にそうなのかも知れません。そのエリアに極めて近かった忌野清志郎さん達のRCにも同じような「匂い」を感じます。
「昔はよかったね」なんてことを言うのはじじいの常套句だったり、後ろ向きな印象を持ってしまいがちですが、客観的に見て本当に「昭和」って良かったなと感じます。大衆歌謡の楽曲、歌唱のクオリティも高さは近年のリメイクブームを見れが一目瞭然です。

こんなこと何で書いているのか自分でもよくわからないんですが、きっと時代が経つにつれて得るものもあればそれに引き換えに失うものもあるわけで、失ってしまったものも大きいなぁと感じてしまったのです。

ちゃんと自分の「内側」から湧き出るものを何かのカタチに変換して「もの(カタチ)」に出来たらいいなぁと思います。何かを真似たりするのではなくで。(影響を受けること全てがよくないということでもない。)

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2014年09月13日

雑感〜知人達の死に寄せて

ボクが「音楽」に偏ることなく向き合うことが出来るようになったのは20代後半に「じゃがたら」というバンドに参加したことが大きなきっかけだ。バンドとしてのサウンド、エンターテインメント、ポピュラリティのバランスが良くなり、さてこれからだ!というタイミングでメンバー3人が亡くなってしまうわけだが、その時にボクの喪失感といったらない。
この身近な仲間が志半ばで逝ってしまうという状況の中、色んなことを考えた。
「生」を受けたものはいずれ必ず「死」という現実を免れることは出来ない。やはり生きているうちに自分のやりたいことをやっておくべきだと常日頃から思っている。知人の訃報を聞く度にそう思い、それをこういったポストに書き記している。書き記すことで自分に対してそれを言い聞かすという意味が大きいのだと思う。
我々表現者は自分の死後も、自作や記録メディアに遺されたパフォーマンスが自分の分身、また子供としてフォロワー達に影響を与えることが出来る可能性を持っている。それはとても有り難いことだ。
でもやはり自分が生きている間に、そういう「実感」を味わいたい。
いいものを「遺す」という意識も大事だけれども、やはり常に「今」を懸命に生きないといけないと思う。(まぁ、「今」を懸命に過ごすことでいいものを「遺す」という結果を導くことになるのですが)

いずれにせよ、焦らず、今を一所懸命生きないとなぁ、せっかく奇跡的に51年間も「生かさせて」いただいているのだから。

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2014年09月10日

巨匠達

有り難いことに音楽の様々な分野の「巨匠」の方々と共演させていただく機会に恵まれているのですが、その方々のいくつかの共通点を自分なりに発見しています。
その1つが、その方々のキャリヤ初期には自分に対する投資を積極的に行なって自分の興味のあることをキャッチするための「アンテナ」の感度を常に高めていて、それら情報を一旦自分に取り込んで「自分」のものとしてアウトプット出来るようになって世間が認めたあたりから、意識的か無意識的なのかわからないけれども、インプットにおける選別機能の強化で制限をかけるのか、「アンテナ」の感度を弱めているというカンジがする。
いずれにせよ、あることを持続するための「体力」は加齢によって弱まることは明白で、逆説的に言えば、いかに短期集中するために、それ以外の時間を「楽」に、あるいは「緩めて」過ごせるかにかかっているようにも見える。「OFF(休日ということでなくあくままでも精神的な)」を作るのがあまり得意でない自分にとっては耳の痛い話しでもあります。


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2014年09月04日

「集中」「分散」

色んなことに於ける「集中」「分散」する、させるということをじっくり考えてみる。

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2014年08月08日

めちゃ再生環境悪くたっていい演奏はサウンドするのだ。

レコーディングを生業にして思えば30年近く経つのですが、「いい演奏」はいかなる劣悪なプレイバック環境であっても実にサウンドしています。小さくてしょぽいモノラルスピーカーやTVからであっても「いい演奏」は「いいカンジ」なのです。誤解を恐れずに言うと各楽器の音量バランスがめちゃくちゃでも「いい演奏」というのは分かります。

逆に音程自体はあっているのにどうもハモらないという事もあるわけです。結果的にシビアな各楽器の音量バランス調整を余儀なくされます。

実に面白く興味深いです。

フレージング、アーティキュレーション、質感、音色感も然りで、それらが揃っているから「いいサウンド」するかと言えばそうでもなくて、個々が単体として歌っていればアーティキュレーションなど揃ってなくても一つの塊としてサウンドすると言うことを経験で学びました。


それを思うと昔のアメリカのTVドラマの劇伴は実にサウンドしていると思います。



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2014年08月04日

存在する意味

楽器(ボーカルも含む)を使って音楽を演奏する場合、それら楽器のテクニックを習得する為には先人の模倣をするところからスタートする。もちろん特定のジャンルを演奏する為にはそのジャンルのマナー(語法)も学ぶことになる。

例えば日本で生まれ育って「ジャズ」とか「ガムラン」とかのルーツを持たない者がそれらを演奏しようとするならば、それを奏でる楽器をマスターし、そのジャンル固有の節回しや構造を理解する必要がある。
それはとても大切なことで、学ぶ上では必要不可欠なものだと思う。

が、そこから先、自分は何をどう表現するかが大切で、寧ろプロはここからがスタートだと言っても過言でないと思う。

誰かに憧れて真似をすることは、成長の過程ではとても大切なことだけれど、それが決てゴールではない、プロならば。憧れの人と同じフレーズを並べることが出来たって、その人以上には成れないと思う。やはりプロのソリストである以上、「自分」のサウンドを見つけないと自分の「存在理由」がないように思う。

「自分らしさ」なんてのは自分では決して分るわけもなく、あくまでも他者がイメージ付けするもので、当人はひたすら「何をしたいのか」「何を表現したいのか」だけをひたすら考えればいいんじゃないかと思う。(勿論、残念なことにそれだけでプロとしてメシが食えていけるかどうかは別問題になるけれども)

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2014年07月19日

ルーツ?

今日、映画「グレンミラー物語」を観た。


これで2度目になるのだが、1度目は自分がトロンボーンを始めておよそ3ヶ月後だったと思う。当時トロンボーン奏者が主役だということが、観るキッカケだったのだが、その時自分の印象に残っていたシーンはトロンボーンが質屋のショウケースに飾ってあるシーンだった。もちろん結末を含むストーリーは当時でも理解出来たし覚えていた。 


35年以上経って自分がプロのトロンボーン奏者、編曲家、バンドリーダーとなった今、再びこの映画を観て心に刺さることがあった。

特に常にミラーが自分の「オリジナルサウンド」を追求する姿勢、偶発的ではあるけれども「クラリネットリード」という見事なオリジナルサウンドを生み出したのは彼のエネルギー、バイタリティ、熱意あってこそだ。

もちろん全てがノンフィクションだとは思わないが、彼の生き方にとても共感した。

また劇中の音楽のヘンリーマンシーニの仕事が素晴らしかった。この映画の為にマンシーニが書き下ろした「Too Little Time」も素晴らしい曲で益々好きになった。(曲タイトルが切なすぎる。)(因みに以前自分のアルバムでトロンボーン13重奏のアレンジでレコーディングした。)


楽器を手にしたばかりの中学生の時と35年経った今、同じ物差しで図るというのもいいものだ。

原点回帰にもなった。


自分が27歳の時に作った1stソロアルバムでソリッドブラスの原型となる管楽器とドラムだけという「編成」にこだわることでオリジナリティを出そうとしたことはミラーと同じだ。レコーディング当時は全くミラーを意識したわけではない。


もしかしたら自分の音楽観のルーツはこの「グレンミラー物語」なのかもしれない。




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2014年01月16日

「動機(モチベーション)」「到達点」「目的」「ベクトル」「フォーカス」

例えばBb7.9.#11.13というコードのPadを重ねて作るとき、構成音の下からBb,D,F,Ab,C,E,Gと重ねていくと比較的サウンドのイメージが湧きやすい。それは響きが「安定」しているところから「緊張」へ向かって行く順番だからだと思う。
3度の「F」を入れてから11度「E」を入れるのは比較的楽だがその逆にテンションノートの「E」から入れていくのはちゃんと和音の最終形が見えていないとなかなか難しい。
Bb7の上に積まれた音3つ「C」「E」「G」はいわゆるCのトライアード。だからといって分母のBbのことをあまり考えずにCのトライアードとしてハモるようにすればいいかといえばそうでもなくて、それが実に興味深い。

とは言え、ビッグバンドの指導をするときにはテンションノートを含む和音を響かせるのは難しいので、その時の構成音を見て、協和音の関係にあるものを取り出してハモりの確認をすることも多い。

シンプルな3和音ならばクラシックを含め日常的にそのサウンドがアタマの中で響かせることは出来るがメジャー(長調)なのに同時にマイナー3度(#9th)の音も含まれる和音テンションノート(b9,#9#11,b13)なんてのはその響きを掴む為にはそれなりにイヤートレーニングが必要だと思う。

ブルーノートスケールに於けるb5の音程の取り方もそう。
このb5の音が次に何処へ向かいたいかということが大事。それは別にb5に限ったことではなくて全ての音に言えることで「どこへ向かいたいのか?」ということが「全て」のようにも思える。
b5がその半音下の 4thにいくのか2thに行くのかで意味合いが違ってくる。(これはジャズインプロバイザーであれば直感的に理解出来ると思う。)

たまたま「音程」について取り上げたけれど、こういう考え方って普遍的なことであらゆることにも当てはまるのではないのだろうか?


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2014年01月05日

【備忘録2】

どうも1つのことに於いてその真逆というか対極にあるものが常に存在しているようだ。というかそれは常にペアになっている。「善悪」「菩提と煩悩」「正負」「緊張と緩和」等。
全てが「対(ペア)」になっているからこそ個々の「価値観」を育むことが出来るのだからそのことに感謝しないといけないと思う。

ヒトに於いてはその真逆通同士のものが同時に混在するもので、いわゆる「自己矛盾」だ。その時の状況によって、その加減が変化する。
自己矛盾について肯定も否定もしないが、そうであるということを常にアタマの片隅に置いておかないといけないようだ。

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2013年12月09日

シンプル

それなりに知識を持ってくると知らぬ間に「余計」な回路を通って本質を見失うこと多し。本当はとてもシンプルなことなのに「知識」「情報」が邪魔をしてそこへ辿り着けないこと多し。
金管楽器を演奏することに関しても知識を持たない子供たちの方が素直に「音」を出せたりするのもそれが原因なのだろう。
ミクロな視点でしかモノを見ることしか出来なくなったら一度遠くからそれを見てみると改めてその本質が見えることもあるだろう。
逆説的に言えば複雑に見えるモノをいかにそれを分解して「シンプル」にする能力が必要なのかもしれない。
簡単なことを難しそうに説明するよりも、難しそうに思えることをその知識のない素人に分るように説明するテクニックの方が優れているし、そうあるべきだと常々思う。

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「やりたいこと」

実は最近「脳」に関する本を読むのが好きなのですが録画しておいたTV番組の中で脳科学者・茂木健一郎「東大入試のような偏差値教育が日本をダメにする」というコーナーが興味深かったです。

その中で「やりたいこと」のないヒトが多いというくだりがあって、ボクには信じられなかったです。もったいないなぁ、せっかく毎日奇跡的に「生きる」ことが出来ているのに。やりたいことを達成半ばで亡くなってしまう方もいるのに。。ボクはやりたいことまだ全部やれてません。何かを達成した瞬間から新たな「やりたい」ことが生まれてくるのです。「やりたいこと」=「目標(課題)」ということかも知れません。

他に、自分の「脳」を喜ばす脳ドーパミン」という神経伝達物質を多く分泌させる方法「今まで自分がやったことのないことをする」「初対面の人と話しをする」ということに関しては、まさにそれに当てはまるようなことを偶然にもトロンボーンとルーパーで1人で2時間強のライブを初対面の地方在住の方のご協力で開催するということをここ1年行なっていたのですが、とても「脳」にも良いことをいていたのだと知りちょっと嬉しかったです。

思えば10代の頃から新しいものに飛び込んで行く傾向は顕著でしたが、その度に初体験故精神的プレッシャーは半端なかったですが、それがあったから今も自分のやっていることに「飽きる」ことなく活き活きしていられるのかも知れません。

生涯「やりたいこと」を持つチャレンジャーでいたいです。それが亡くなった友人達への供養だとも思います。

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2013年07月21日

供給過多

ライブを生業とするミュージシャンにとってライブの集客はその人たちにとっての死活問題なのですが、その為の告知が実に難しい。それは全てのライブがハイライトだから。結果的に地方公演を除いてそれぞれのライブの告知が直前になってしまいます。
ライブ、ミュージシャンの数が多過ぎで飽和状態であるということと、エンターテイメントを含む消費の選択肢の多様化が原因なのかなと。
結果的にイレギュラーで活動するアマチュア演奏家のライブの方が集客がいいという現象が起こります。または沢山生徒を持つ先生主催のコンサートだとか。
こんな状況だから早過ぎるライブハウスのブッキングを躊躇してしまうことにもなっています。(共演してくれるミュージシャンに対してなかなか報酬に関して保障してあげられない)
この状態を嘆いているわけでもなく1つの事実と捉えています。
「供給過多」における原則だからです。
でもこの「供給」に関して果たしてその中身の「クオリティ」は果たして上がっているのかな?と思うこともあり、これに関しては我々は常に意識して向上に努めないといけないなぁと思ったり。(これ自分に向けての独り言ですので適当にながしてくださいね。)

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2013年06月29日

いくさ

昨日は仕事の前にたっぷり時間があったので訪問地である大分中津にある福沢諭吉旧居や中津城に行ってきました。特に歴史好きなわけではないのですが、仕事で訪れる場所にこういった処があるとついつい好奇心が出て行くことが多いです。やはりこういった過去の歴史的なノンフィクションのものに触れると色々考えさせられるます。特に「城」には「戦さ」がついてまわります。城主も含めとてもドラマティックな人生を送っているということがわかります。フィクションのドラマなんて比になりません。
当たり前のことですが「戦さ」というのは無関係な人たちもその大きな渦に巻き込んでいきます。本当に怖いです。「戦さ」というのは常に相対する勢力があるわけで、どちらもそれらの立場の正当性を主張するからこそ「戦さ」が起こるわけです。いまでこそ日本では直接的に生命の危険を伴うような「戦さ」はありませんが、世界レベルで見るといまだに「戦さ」はあるわけで、それはおそらくなくなることはないのでしょう。。

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2013年05月08日

到達点

ボクはあと数ヶ月で50歳を迎えるわけですが、客観的に見て順当にいったとしてももう完全に折り返し地点は過ぎています。とは言え自分の目指しているものはまだまだ遠くにあります。最終的にそこに到達したいのですが到達出来ないかも知れません。否、出来ない可能性の方が高いでしょう。現実的には出来るだけその到達点に近づけるように努力するつもりでいるし、今も努めているつもりです。年齢を重ねる度に、そこに向かう為に必要のないものはどんどん自分自身、自分の周りから排除していきたいという欲求は増すばかりです。そういうことで無駄な時間、エネルギーを費やしたくないと思います。でも生きていく限りにおいては無理なことかも知れません。

posted by YM at 23:14| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする