2017年04月06日

音楽は空気振動で伝える2

一つ前のポストに関連してですが、マイクを使ってPAするということが必須ということではなくて、マイクを使わざるをえない会場ではマイクも楽器の一部として捉えるべきだということでした。
「音」はいわゆる空気振動です。楽器が奏でた「音」が「空気振動」というエネルギーに換わるので、その振動が伝わらねば意味が無いということですよね。大きな会場であればあるほど、周りの楽器の音が大きければ大きいほどマイクを使ってアンプリファイドすることが必要になるのは当然です。

でも逆に狭いジャズクラブなどは PAを使わず生音で演奏べきだと思っています。この狭い空間でマイクを使わなくてはいけない状態は決して各楽器のアンサンブルがいい状態だとは言い難いと思います。
それはドラマーが大きく演奏しすぎる、ギター、ベースのアンプの音量が大きすぎることに起因することが多いようです。
小さな空間で空気振動を発生させるのと広い空間でそれをするとでは同じ
「音量」で演奏していいわけありませんよね。

ダイナミックスをきちんとコントロールしてるドラマーと演奏すると本当に楽しいですし、イマジネーション、アイディアも演奏中に湧きますし、何しろ疲労度が低いです。

でも自分の発信しているものもの(音、思い)が伝えたい相手(オーディエンス、共演者)に伝わっていなかったら発信する意味がないと思うので伝えたかったら、そのための術をちゃんと身につけておく必要があると思います。そしてそれは状況によってその方法は変わってくると思います。

「生音で空気振動が伝わないような環境、キャパシティの場所であるならば、音を届けるためにPAは必須。だからこそマイクの使い方等含めてそれらの知識を持つことも必須。」という例を挙げましたがこれって自分の何かを相手に伝えるというコミニュケーション論にも通ずるところがあるなぁと最近思っています。

話は脱線気味ですが、私はPA至上主義ということではなく、基本はアコーステック派ですので。(念のため)


posted by YM at 00:46| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

音楽の伝達は空気振動1

楽器の生音が客席まで届かないような大きなコンサート会場やスタジオでは(ライン楽器以外の)生楽器はマイクを通し、アンプリファイアされてPAスピーカーからその音を鳴らしているわけです。
いくら大きな生音を出してもマイクでその音を拾わなければ当然PAスピーカーから音は出ません。

つまり楽器から出る「振動」をマイクにちゃんと入れないとせっかくいい演奏をしてもオーディエンスにはそれが伝わりません。
また、たとえちゃんとマイクに音を入れても楽器をマイクの距離感、角度が違うだけでPAスピーカーから出るそれらの楽器の「音色」「音質」がかなり違ってきます。
場合によってはフレンチホルンを吹いているにまるでトロンボーンのような「音」になってしまうことなど日常茶飯事です。

つまりマイクと楽器の距離は楽器、マウスピース等のマテリアルに関する微調整よりも「音」に影響します。

自分のマテリアルについて常に神経質になっているのに自分の目の前にあるマイクに無関心なんてのを結構現場で見ます。

特に同じ楽器が複数あるような編成(オーケストラとかビッグバンド)における楽器とマイクの距離というのはとても重要で、各セクションのバランスに直結します。
トランペットやトロンボーンのように音の出る「ベル」と「マイク」が自分の目から同一線上にある場合、その「距離」を視覚的に確認するのは殆ど無理です。

よって真横から第三者に見てもらって同じ楽器同士の距離を測ってもらうことを強く勧めます。

マイクとベルの距離が違うと音量だけでなく「音質」「音色」が大きく変わってしまうのでセクションとしてのまとまりを求めるためにはその行為が必須だと思います。
ステージ上ではバランスがいいのに客席ではバランスが悪いというのは間違いなくこの「距離」の問題だと思います。

PAを使って成立する音楽に関しては目の前にある「マイク」も自分の楽器の一部という認識が必要だと思います。

いわゆるPAを一切使わないクラシックは演奏するホールも楽器の一部という認識があることは言うまでもありません。

せっかくいい生音を吹いているのであれば、それをそのまま客席に届けたいですよね!



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CDパッケージ

一応、既成楽曲をアレンジするにあたってオリジナル音源はもちろんの事、色んなバージョンを参考に聴くのですが、今回の楽曲は本家がかなり色んなバージョンで演奏していて、いわゆる世間のイメージとしてはかなり大衆向けの娯楽音楽だと思っていたがさにあらず。オーケスレーションはどのバージョンも大差ないもののインストルメンテーション(楽器の振り分け)に関してはかなりチャレンジしているのが分かります。そういえば、その人の伝記映画見ても常にオリジナルサウンドを追求する為に試行錯誤しているシーンが沢山ありました。
こういう時には本当にAppleMusicは助かります。導入してからというもの今まで出会うことのなかった音楽を知るチャンスが格段に増えました。僕に新しい扉を開いてくれてありがとう。
でも気に入った「音」はその後ちゃんとパッケージを買います。
テキスト、写真、ジャケットに詰まった情報が欲しいので。
posted by YM at 00:40| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ライブのMC

過日のオーケストラのライブでは演奏する楽曲の説明としてその作者、その背景、自分の施した編曲の意図についてをその度にMCとして説明しました。個人的に「こういうの好きだな」と思ってます。その時演奏する曲の説明は必要だし、逆にそれ以外のことってMCでは要らないのかなと。

どうやら近い将来音源リリースが配信メインになるのは必至なわけで、音源についての説明がどんどん削られていくのでせめてライブだけでもこういった説明があったほうが自分のやりたいこと、伝えたいこととかがわかる更に理解してもらえると思うので。

posted by YM at 00:39| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

3ホーンズアカペラ

バンドの中でのホーンセクションのアレンジは二十歳そこそこでルーチンワークとしてしていたけれどtp,ts.tbの3人のアカペラ的なものを最初に書いたのはじゃがたらの「みちくさ」と言う曲のイントロです。 
OTOがコード進行を決めて、それに乗っ取って3管の旋律を作曲する作業でした。
いかに本編のイントロとして相応しい3つのラインが作れるか手探りで作ったのを昨日のことのようにはっきり覚えています。
結果的に自分でも満足いく出来でした。でもこれはサックス篠田昌己さん、トランペット吉田哲治さんが演奏してこそ成立したのでした。
当時の書き留めた五線ノートがまだどこかにあるはずなのでいつか見直してみたいと思います。こういう手書きのノートは財産です。
posted by YM at 00:37| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ここのところ一人作業の時間が増えていて、それはそれでとてもやりがいのあるものだし楽しいのだが、大きな編成を書くことが多いので現場で一気に大勢の人たちと会うことになるので軽く人酔いする。
でもとても楽しい。
今まで毎日会っていたような知り合いも「線」ではなく「点」のような頻度での同席となってくるとその都度のちょっとした変化に敏感になる。というか慢性的で麻痺していた部分の感覚が蘇る感じ。それはそれで新たな発見があったりして楽しい。
長く生きれば生きるほど付き合う人たちとの年齢層が広がる。
若い世代との接触で自分の延長上にはない考え方をそこで手に入れることが出来る。それは熟練してないからこその発想だったりする。

僕がラッキーだと思うのは70-80歳代のレジェンド達と接点を持つことチャンスに恵まれていることだ。彼らから「熟練の技」「知識」「歴史」を得ることももちろんあるが、それ以上にその年代で一線で活躍されている方全てに共通している、音楽に対する「情熱」と「チャレンジ精神」が旺盛な部分に大きく触発させられる。この2つのワードは本来「若者」の専売特許だったはずなのに面白いものだ。

今回のツアー中の移動や食事の時に他愛のない会話が結構面白い。
が、それが日常になると話は別かもしれないが。

たとえ一人作業であっても結局はどの案件も大勢の方々と繋がっているということを最近とても感じている。でも作っているときは孤独だ。でも孤独じゃないと作れないとも思う。

益々「自分と対峙すること」と「人と繋がること」の両方の大切さが身に沁みる。

posted by YM at 00:32| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

映画「JACO」を観ての雑感

「JACO」を観ての雑感

ジャコがウェザーではなくBSTに入っていたら彼の人生は違っていたんだろうなぁ。フロリダのローカルミュージシャンやっていたとしたらとか。(余談だがジャコの息子さんが一時イエロージャケッツに参加していたが、ポップミュージックへ進む為に脱退した)

彼はザビヌルやショーターと一緒に演ったことでジャズのカテゴリーで(も)ヒーローになっていたけれど、ザビヌルと一緒にバンドをやったことが後期の彼の精神的な崩壊へと向かわせたのも事実なんだなとも。
ドキュメンタリーを見ながらザビヌル〜ショーター〜ジャコの関係性が浮き彫りになり、ショーターが何故今あのポジションなのかも分かった様な気がした。

レコード会社と契約していた後期に彼の作った「HOLIDAY FOR PANS」というスティールパンを全面にフィーチャーしたアルバムは、レコード会社にとってセールス面においてNGとされた作品だった。実際僕もそれがリリースされた時、もっとジャコのベース、スタープレイヤーの演奏を期待していたので、そのアルバムにあまり興味がなかった。きっとジャコフリークは皆んなそう思ったと思うし、だからこそレコード会社もNGとしたのだろう。
でもドキュメンタリーを見ると、ジャコが田舎フロリダの仲間と作品を作りたかったという意思がとても伝わってきて、もしかしたらこの作品こそ彼の一つの結果なのかとも感じる様になった。

ジャコ本人も息子もやはりピーターアースキンがとても大事なキーパーソンだし彼らをもっともフォローしたミュージシャンだと思う。(ジャコのバースデーライブ音源も彼のプライベートな音源)
せっかく貞夫さんのお仕事であースキンさんと長い時間ご一緒したのにジャコの話を聞くのをすっかり忘れていたのがとても悔しい。次回是非いろんな話を聞いてみたい。

posted by YM at 00:30| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【備忘録】

ト書きが多い過ぎるものは読みづらく根本を見失いやすい。
それは楽譜でも。

プランを考えるなら文章より図形。

posted by YM at 00:24| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

アーティキュレーション

何気なく聴く音楽でどんな状況の時にでも思わず耳がいってしまう素晴らしい演奏があります。なぜこんなにも惹きつけられるのか考えるにその演奏の音色、フレーズもさることながらアーティキュレーションが素晴らしいからだと気がつきました。とかくアドリブに関してフレーズに力点がいきがちだけれどもそれ以上にそのフレーズをどんなアーティキュレーションで演奏するかで、そのフレーズを生かしも殺しもするということです。
とっても心に響く演奏のフレーズをアタマの中で音符に変換してみても、フレーズ自体はとても平凡なものだったりするのです。ある意味、「音色」もアーティキュレーションの範疇だとも言えるので本当にアーティキュレーションに関してもっともっと考えた方がいいなと思った次第です。これは別にソロに限らずセクションもそうだしどんなジャンルにも言えることだと思いました。しかしセクションなんかはついつい全員同じアーティキュレーションで統一することが絶対条件であるという風潮にありますが、実はそれぞれのアーティキュレーションが素晴らしければ同じアーティキュレーションである必要がないような気もします。
posted by YM at 00:21| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月30日

レクチャー

【全日本ブラスシンフォニーコンクール課題曲の講習】

今回の課題曲はグレンミラー「ムーンセレナーデ」です。前のポストにも書いたように演奏者がある程度選択出来るような編曲になっています。
故にスコアを読むのがあまり得意でない指導者の方にはカスタマイズすることのハードルが高く感じてしまうかもしれません。(もちろん書いてあるものをそのまま演奏するのでも十分に楽しめる内容になっていると思います。)
この曲はミディアムテンポのスウィングとボサノバのリズムで書かれています。この「スウィング」はジャズ特有のいわゆる「ハネる」リズムです。吹奏楽でもこういったリズムの曲を演奏する機会はあると思うのですが、普段からジャズを演奏している我々からすると、吹奏楽で演奏する「ハネ方」はかなり奇異に聞こえてしまっていて、「ジャズ」のそれとは異なっています。
でもこれはキチンと「ジャズ」のアーティキュレーションを体系化して説明すればおそらく30分で理解出来るようなことだと思います。
課題曲のカスタマイズのやり方、ジャズ、ポップスのリズムの捉え方などを一度、(指導者も含む)参加者にむけた講習会を実施したら、かなり「ムーンセレナーデ」がジャズっぽくなったり個性的になったりすると確信しています。
個人的には講習会を開きたいなぁと思っているので、ちょっと運営サイドでこの案件を揉んでみたいと思います。



posted by YM at 01:01| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

相手に伝える、届けること。

一つ前のポストに関連してですが、マイクを使ってPAするということが必須ということではなくて、マイクを使わざるをえない会場ではマイクも楽器の一部として捉えるべきだということでした。

「音」はいわゆる空気振動です。楽器が奏でた「音」が「空気振動」というエネルギーに換わるので、その振動が伝わらねば意味が無いということですよね。大きな会場であればあるほど、周りの楽器の音が大きければ大きいほどマイクを使ってアンプリファイドすることが必要になるのは当然です。

でも逆に狭いジャズクラブなどは PAを使わず生音で演奏べきだと思っています。この狭い空間でマイクを使わなくてはいけない状態は決して各楽器のアンサンブルがいい状態だとは言い難いと思います。

それはドラマーが大きく演奏しすぎる、ギター、ベースのアンプの音量が大きすぎることに起因することが多いようです。

小さな空間で空気振動を発生させるのと広い空間でそれをするとでは同じ「音量」で演奏していいわけありませんよね。

ダイナミックスをきちんとコントロールしてるドラマーと演奏すると本当に楽しいですし、イマジネーション、アイディアも演奏中に湧きますし、何しろ疲労度が低いです。

でも自分の発信しているものもの(音、思い)が伝えたい相手(オーディエンス、共演者)に伝わっていなかったら発信する意味がないと思うので伝えたかったら、そのための術をちゃんと身につけておく必要があると思います。そしてそれは状況によってその方法は変わってくると思います。

「生音で空気振動が伝わないような環境、キャパシティの場所であるならば、音を届けるためにPAは必須。だからこそマイクの使い方等含めてそれらの知識を持つことも必須。」という例を挙げましたがこれって自分の何かを相手に伝えるというコミニュケーション論にも通ずるところがあるなぁと最近思っています。

話は脱線気味ですが、私はPA至上主義ということではなく、基本はアコーステック派ですので。(念のため)


posted by YM at 13:04| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月29日

マイクも楽器の一部

楽器の生音が客席まで届かないような大きなコンサート会場やスタジオでは(ライン楽器以外の)生楽器はマイクを通し、アンプリファイアされてPAスピーカーからその音を鳴らしているわけです。
いくら大きな生音を出してもマイクでその音を拾わなければ当然PAスピーカーから音は出ません。

つまり楽器から出る「振動」をマイクにちゃんと入れないとせっかくいい演奏をしてもオーディエンスにはそれが伝わりません。
また、たとえちゃんとマイクに音を入れても楽器をマイクの距離感、角度が違うだけでPAスピーカーから出るそれらの楽器の「音色」「音質」がかなり違ってきます。
場合によってはフレンチホルンを吹いているにまるでトロンボーンのような「音」になってしまうことなど日常茶飯事です。

つまりマイクと楽器の距離は楽器、マウスピース等のマテリアルに関する微調整よりも「音」に影響します。

自分のマテリアルについて常に神経質になっているのに自分の目の前にあるマイクに無関心なんてのを結構現場で見ます。

特に同じ楽器が複数あるような編成(オーケストラとかビッグバンド)における楽器とマイクの距離というのはとても重要で、各セクションのバランスに直結します。
トランペットやトロンボーンのように音の出る「ベル」と「マイク」が自分の目から同一線上にある場合、その「距離」を視覚的に確認するのは殆ど無理です。

よって真横から第三者に見てもらって同じ楽器同士の距離を測ってもらうことを強く勧めます。

マイクとベルの距離が違うと音量だけでなく「音質」「音色」が大きく変わってしまうのでセクションとしてのまとまりを求めるためにはその行為が必須だと思います。
ステージ上ではバランスがいいのに客席ではバランスが悪いというのは間違いなくこの「距離」の問題だと思います。

PAを使って成立する音楽に関しては目の前にある「マイク」も自分の楽器の一部という認識が必要だと思います。

いわゆるPAを一切使わないクラシックは演奏するホールも楽器の一部という認識があることは言うまでもありません。

せっかくいい生音を吹いているのであれば、それをそのまま客席に届けたいですよね!



posted by YM at 23:44| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月10日

ポップであること。何も無いところからは何も新しいものは産まれないということ。

「ジャズ的思考」と「クラシック的思考」あなたはどちら?


これらのことを普段から考えている身としては、「正誤」はともかくなかなか興味深い記事。
シュラーを中心に意図的に造られた「第三の流れ」(Third Stream)という言葉?カテゴリー?
マイルス、JJ、ジョンルイス,デイブブルーベックなども巻き込んで、このコンセプトで数枚アルバムをリリースするものの、結果的にこの「流れ」が定着することはなかった。
20代の私にとって、とても魅力的だったコンセプトだったのだけれど、当時の私にはあまり刺激的ではなかった。
それでも中にはジョンルイス「Jazz Abstractions」のような刺激的な作品もあるのだけれど、とても「実験的」であることは拭えない。
この手のカテゴリーが根付かなかった理由の一つは「popularity」の欠如だと個人的に思う。
拡大解釈でマイルス〜ギルの一連の作品「Miles Ahead」「Porgy and Bess 」「 Sketches of Spain」辺りを Third Streamというのならばこれは例外。これはプロデューサーのテオマセロの功績が大きいとも思う。(「 Sketches of Spain」に関してはクラシックというよりも民族音楽とのミクスチャーだと思う。)

記事中にある下の一節はかなり共感出来るというか、いつも自分自身が思うことです。

「今でこそ、即興演奏は私にとって直感的な行動になっていますが、それを直感的にするために、長年の演奏で得てきたすべてのリソースをかき集めているのです。学校で習った音楽の知識、私なりの音楽の歴史的理解、そして、演奏する楽器の技術的な理解のすべてをです」
『Thinking in Jazz』Paul Berliner著


何も無いところからは何も新しいものは産まれないということだと思います。




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2015年09月03日

常に同士でありライバルであるべき

資料として渡辺貞夫さん1980年@武道館コンサートの映像を観る。

参加メンバー

Richard Tee, Steve Gadd, Eric Gale, Ralph MacDonald, Anthony Jackson, Jeff Mironov and Dave Grusin​に東京フィルハーモニックオーケストラ(リードトランペットにJohn Faddis)

という布陣。

しかもこの武道館は3日間行われていて、その内の2日間のコンサートの模様をHow's Everythingというアルバムとして発表されています。

このコンサート以前も今後も1人のジャズミュージシャンが武道館で3日間単独公演をすることはないでしょう。

前人未到の快挙だと思います。

これには貞夫さん本人の実力、タレント性は必須ではありますが、それをサウンド面で全面的に支えていたDon Grusin、制作、運営面で支えたスタッフワークは成功の為の不可欠な要素だと思いました。


夜になって今年の前期に音大で教えているアンサンブルのクラスの生徒たちとのお疲れさま会でした。


貞夫さんと僕は世代でいうと「親子」です。

僕と今日の生徒たちも「親子」の年格好です。


でもお互いがプロの演奏家として同じ「板」に上がる以上は常に同士でありライバルであるべきだと思っています。

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2015年05月18日

「絶対値」「基準値」

ピアノのように音程が可変しない楽器が含まれない編成(バンド、アンサンブル)の中で演奏する場合、管楽器(弦楽器もか)奏者は合奏中にチューニン グメーターを見ながら演奏すべきではない。バンド自体が段々音程が上ずることなんてのは周知のことなので、それと無関係にただ「441」に合うように演奏 すれば周りと合うわけないわけで。メーターとにらめっこする「視覚」によって合わせるんじゃなくて、あくまもで周りの音を「聴覚」を使って合わせるのが、 最も理にかなっていることですよね。
スマホなんかのアプリでチューナーがあるくらい便利な世の中ですが、使いようによっては自分の本来持っている「聴力」「音感」という能力を鈍らせる危険性を孕んでいると警戒したほうがいいかも。

音程もダイナミックスもアーティキュレーションも、とどのつまり「相対的」なもの。何が「絶対値」「基準値」なのかを誤ることは音楽の土台を誤ることに通ずるのかも。

私感なり。



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2014年09月15日

昭和の番組

ボクが高校生だった頃、『ヤングおー!おー!』という番組がありました。桂三枝(当時)が司会で明石家さんま達がまだ若手ということで好き放題やっているホールでの公開録画番組です。基本は音楽ものとしては歌謡曲中心なのですが、「スペクトラム」とか「生活向上委員会」も出演して、それを画面で見たボクは暫し呆然でした。(それぞれ違う理由で)
そのころはクラシック少年だった私の方向性を大きく狂わせるきっかけにもなりました。その頃の番組にはすごいパワーがあって、そういう番組を観ていた人たちにスゴく影響を与えていたと思います。(ボクもその1人)今もああいう番組があるといいなと思います。

先日、仕事場で「日本人らしい」音楽ってどんなんだろう?我々、日本人の奏でる「音楽」って他の国のそれとどう違うんだろう?例えば諸外国産のジャズスタンダード曲やクラシックを日本人が演奏した時、原産国のそれとどう違うんだろう?っていうことについて、みんなで考えてみました。我々、管楽器は常に「タンギング」という言語発音に近い動作が演奏上必須なので、自ずとそれらの母国語と演奏が大きく関係があると思います。
ドイツ語圏のプレイヤーがジャズ曲を演奏するとアメリカの「それ」とは違うということはボクにでも分ります。(ちなみにボクはドイツっぽいジャズも大好きです。)だから、例えば日本人が演奏する欧米の曲はどんな風に聞こえるのかとても興味があります。
自分のルーツにない音楽を奏でる場合、やはり最初は模倣というカタチで勉強していくわけですが、もうそろそろ、その手の音楽を演奏するんでも、「自分」らしい演奏をすることを心がけるような段階に来ているようにも思えます。今は情報が豊富だから細部にわたって模倣することが安易だと言えるので「クローン」を作りやすい環境だと思います。
昭和の頃は「模倣」するのでも情報が少ないため、あるいは演奏スキルがまだまだ欧米との間との隔たりが激しかったので、そこで見よう見まねでやった結果が1つの「オリジナリティ」を産んだのかも知れません。
先出の「生活向上委員会」を筆頭に「中央線ジャズ」というのは正にそうなのかも知れません。そのエリアに極めて近かった忌野清志郎さん達のRCにも同じような「匂い」を感じます。
「昔はよかったね」なんてことを言うのはじじいの常套句だったり、後ろ向きな印象を持ってしまいがちですが、客観的に見て本当に「昭和」って良かったなと感じます。大衆歌謡の楽曲、歌唱のクオリティも高さは近年のリメイクブームを見れが一目瞭然です。

こんなこと何で書いているのか自分でもよくわからないんですが、きっと時代が経つにつれて得るものもあればそれに引き換えに失うものもあるわけで、失ってしまったものも大きいなぁと感じてしまったのです。

ちゃんと自分の「内側」から湧き出るものを何かのカタチに変換して「もの(カタチ)」に出来たらいいなぁと思います。何かを真似たりするのではなくで。(影響を受けること全てがよくないということでもない。)

posted by YM at 23:44| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月13日

雑感〜知人達の死に寄せて

ボクが「音楽」に偏ることなく向き合うことが出来るようになったのは20代後半に「じゃがたら」というバンドに参加したことが大きなきっかけだ。バンドとしてのサウンド、エンターテインメント、ポピュラリティのバランスが良くなり、さてこれからだ!というタイミングでメンバー3人が亡くなってしまうわけだが、その時にボクの喪失感といったらない。
この身近な仲間が志半ばで逝ってしまうという状況の中、色んなことを考えた。
「生」を受けたものはいずれ必ず「死」という現実を免れることは出来ない。やはり生きているうちに自分のやりたいことをやっておくべきだと常日頃から思っている。知人の訃報を聞く度にそう思い、それをこういったポストに書き記している。書き記すことで自分に対してそれを言い聞かすという意味が大きいのだと思う。
我々表現者は自分の死後も、自作や記録メディアに遺されたパフォーマンスが自分の分身、また子供としてフォロワー達に影響を与えることが出来る可能性を持っている。それはとても有り難いことだ。
でもやはり自分が生きている間に、そういう「実感」を味わいたい。
いいものを「遺す」という意識も大事だけれども、やはり常に「今」を懸命に生きないといけないと思う。(まぁ、「今」を懸命に過ごすことでいいものを「遺す」という結果を導くことになるのですが)

いずれにせよ、焦らず、今を一所懸命生きないとなぁ、せっかく奇跡的に51年間も「生かさせて」いただいているのだから。

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2014年09月10日

巨匠達

有り難いことに音楽の様々な分野の「巨匠」の方々と共演させていただく機会に恵まれているのですが、その方々のいくつかの共通点を自分なりに発見しています。
その1つが、その方々のキャリヤ初期には自分に対する投資を積極的に行なって自分の興味のあることをキャッチするための「アンテナ」の感度を常に高めていて、それら情報を一旦自分に取り込んで「自分」のものとしてアウトプット出来るようになって世間が認めたあたりから、意識的か無意識的なのかわからないけれども、インプットにおける選別機能の強化で制限をかけるのか、「アンテナ」の感度を弱めているというカンジがする。
いずれにせよ、あることを持続するための「体力」は加齢によって弱まることは明白で、逆説的に言えば、いかに短期集中するために、それ以外の時間を「楽」に、あるいは「緩めて」過ごせるかにかかっているようにも見える。「OFF(休日ということでなくあくままでも精神的な)」を作るのがあまり得意でない自分にとっては耳の痛い話しでもあります。


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2014年09月04日

「集中」「分散」

色んなことに於ける「集中」「分散」する、させるということをじっくり考えてみる。

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2014年08月08日

めちゃ再生環境悪くたっていい演奏はサウンドするのだ。

レコーディングを生業にして思えば30年近く経つのですが、「いい演奏」はいかなる劣悪なプレイバック環境であっても実にサウンドしています。小さくてしょぽいモノラルスピーカーやTVからであっても「いい演奏」は「いいカンジ」なのです。誤解を恐れずに言うと各楽器の音量バランスがめちゃくちゃでも「いい演奏」というのは分かります。

逆に音程自体はあっているのにどうもハモらないという事もあるわけです。結果的にシビアな各楽器の音量バランス調整を余儀なくされます。

実に面白く興味深いです。

フレージング、アーティキュレーション、質感、音色感も然りで、それらが揃っているから「いいサウンド」するかと言えばそうでもなくて、個々が単体として歌っていればアーティキュレーションなど揃ってなくても一つの塊としてサウンドすると言うことを経験で学びました。


それを思うと昔のアメリカのTVドラマの劇伴は実にサウンドしていると思います。



posted by YM at 01:21| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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