2012年08月31日
演奏の内容とそれを演る場所
具体的に身の上に何かあったわけではないけれども、演奏する内容によってそれを演奏する場所を的確に選ぶべきだと思いました。ただ何となくふとアタマの中を過りました。
2012年07月20日
耳に入った言葉をちゃんとアタマの中で漢字に変換してみる
ここのところ、ニュースのトップ項目になるほど中高生の「いじめ」問題がクローズアップされている。さまざまなメディアでコメンテーター達が、これは「いじめ」とは言わないでもはや「暴行」「傷害」「脅迫」事件という言葉を使って指導していくべきだと口角泡を飛ばしている。私もそう感じる。
しかし、「いじめ」という言葉の意味は本来
いじめ(苛め、虐め、英: Bullying)
相手の肉体的・心理的苦しみを快楽的に楽しむことを目的として行われる様々な行為。実効的に遂行された嗜虐的関与[1]。なお、表記については、カタカナ表示の「イジメ」と書かれることも多い。
ということらしい。(wikiより)
肉体的、精神的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせなどによって苦しめること。特に、昭和60年(1985)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い。(goo辞書より)
そこには既に「暴行」なる表現があるし、いじめる側がその行為によって苦しめられている相手をみて楽しみといったことも付随するのでもはや「暴行」よりもかなり酷く悪質な行為であるのは一目瞭然だと思います。
せめて「いじめ」という言葉を「苛め」「虐め」とするならば、その行為の残酷さを実感できると思います。
例えば、「いじめっ子」と「苛めっ子」とではかなり印象が違うのではないのでしょうか?
「いじめ」ということばの響き(音)の持つ印象でインプットされてしまうために本来の意味よりも軽いように感じてしまうのかも知れません。
同じ言葉でも、それをひらがな表記にしたり、カタカナ表記にしたりすることでかなり言葉の印象も違ってきます。例えば、ひらがなにすると柔らかく、カタカナだと無機質、漢字だと重いというような印象になるように思います。漢字にはちゃんと「漢字」そのものにその成り立ち、意味がきちんと記されているから、漢字を読んでいればそれほど意味が外れていくようなことはないように思います。
またテキスト形式にする際のフォントによってもかなりイメージがコントロールされてしまうと思います。
自分の思いを伝える手段としての「言葉」の適切な選び方、使い方を慎重にしないといけないと思いました。
「いじめ」は「苛め」「虐め」です。
しかし、「いじめ」という言葉の意味は本来
いじめ(苛め、虐め、英: Bullying)
相手の肉体的・心理的苦しみを快楽的に楽しむことを目的として行われる様々な行為。実効的に遂行された嗜虐的関与[1]。なお、表記については、カタカナ表示の「イジメ」と書かれることも多い。
ということらしい。(wikiより)
肉体的、精神的に自分より弱いものを、暴力やいやがらせなどによって苦しめること。特に、昭和60年(1985)ごろから陰湿化した校内暴力をさすことが多い。(goo辞書より)
そこには既に「暴行」なる表現があるし、いじめる側がその行為によって苦しめられている相手をみて楽しみといったことも付随するのでもはや「暴行」よりもかなり酷く悪質な行為であるのは一目瞭然だと思います。
せめて「いじめ」という言葉を「苛め」「虐め」とするならば、その行為の残酷さを実感できると思います。
例えば、「いじめっ子」と「苛めっ子」とではかなり印象が違うのではないのでしょうか?
「いじめ」ということばの響き(音)の持つ印象でインプットされてしまうために本来の意味よりも軽いように感じてしまうのかも知れません。
同じ言葉でも、それをひらがな表記にしたり、カタカナ表記にしたりすることでかなり言葉の印象も違ってきます。例えば、ひらがなにすると柔らかく、カタカナだと無機質、漢字だと重いというような印象になるように思います。漢字にはちゃんと「漢字」そのものにその成り立ち、意味がきちんと記されているから、漢字を読んでいればそれほど意味が外れていくようなことはないように思います。
またテキスト形式にする際のフォントによってもかなりイメージがコントロールされてしまうと思います。
自分の思いを伝える手段としての「言葉」の適切な選び方、使い方を慎重にしないといけないと思いました。
「いじめ」は「苛め」「虐め」です。
2012年07月12日
変換する
絵画、小説、はたまたノンフィクションの出来事からインスピレーションを受けて音楽を作ったり、音楽からインスピレーションを受けて絵を描いたり。
何かを見たり、聴いたり、読んだりして感じたことを(視覚から入った情報を聴覚でのアウトプットにするとか)別の方法でカタチにするということは、とてもクリエイティビティの高いことだと思う。
つまり、自分の感じたこと(それが主観的であっても客観的であってもいい)を自分のフィルターを通して別のメディア、基準のものに変換するという行為によって生成されたものは当然ではあるが、インプットされたものとアウトプットしたものとはイコールにならない。この誤差を分析したら自分の中の色んなものが見えてくるような気がした。
何かを見たり、聴いたり、読んだりして感じたことを(視覚から入った情報を聴覚でのアウトプットにするとか)別の方法でカタチにするということは、とてもクリエイティビティの高いことだと思う。
つまり、自分の感じたこと(それが主観的であっても客観的であってもいい)を自分のフィルターを通して別のメディア、基準のものに変換するという行為によって生成されたものは当然ではあるが、インプットされたものとアウトプットしたものとはイコールにならない。この誤差を分析したら自分の中の色んなものが見えてくるような気がした。
2012年07月11日
2012年07月07日
「利己主義」と「自己防衛本能」
大津・中2自殺に関して次々と情報が出てきている。いじめを苦にしての自殺ということだが、いじめている方が、彼に「自殺」の練習を強要したりしていたり、それを促していたようだ。こういったいじめの事実を担任は知っていて、そればかりか、いじめの行為に関して『やりすぎんなよ』と。現場にいないので、戯れてるだけに映ったという言い訳は通用しないだろう。そして彼の両親は暴行について被害届を出す為に大津署に3回相談したものの被害届を受理されることはなかった。このような結果になってしまったことにおける責任はどこにあるのか?責任追及はこれから進められていくのだろうけれど、正直言って根本的な解決、抑止にはならないと思う。マスメディアが偏向した取り上げ方をすれば、二次的被害も誘発するだろう。今回の件で責任に問われるであろう人たちの誰か一人でも警鐘を鳴らしていた被害者側の声に耳を傾けていたら最悪の結果にはならなかったかもしれない。弱者に向けたこういった事例が多すぎる。
先日、東京電力福島第1原発事故で全町避難を余儀なくされている福島県浪江町は東電と協定を結び、原発でトラブルが起きた場合は連絡を受けることになっていたにも関わらず、当時、東電からの状況説明がなかったにも関わらず、東電は説明したとの虚偽をしていたという疑惑が持ち上がった。
日本人て、いつからこんなに利己的のなっただろうか?
とはいえ、「尖閣諸島」「北方領土」に関しての隣国の振る舞い、発言をみるにつけ、どこも似たようなものだと痛感する。
では、自分は利己的ではないと言い切れるのか?というと言い切れないかもしれない。寧ろ言い切ることが出来るようならば、その時点で既に偽善者になっていると言えるだろう。せめて、他人様にご迷惑をかけないように生きていかないといけない。
「利己主義」と「自己防衛本能」とは全く異なること。
先日、東京電力福島第1原発事故で全町避難を余儀なくされている福島県浪江町は東電と協定を結び、原発でトラブルが起きた場合は連絡を受けることになっていたにも関わらず、当時、東電からの状況説明がなかったにも関わらず、東電は説明したとの虚偽をしていたという疑惑が持ち上がった。
日本人て、いつからこんなに利己的のなっただろうか?
とはいえ、「尖閣諸島」「北方領土」に関しての隣国の振る舞い、発言をみるにつけ、どこも似たようなものだと痛感する。
では、自分は利己的ではないと言い切れるのか?というと言い切れないかもしれない。寧ろ言い切ることが出来るようならば、その時点で既に偽善者になっていると言えるだろう。せめて、他人様にご迷惑をかけないように生きていかないといけない。
「利己主義」と「自己防衛本能」とは全く異なること。
2012年06月30日
職業音楽家とアマチュア音楽家は両立する
音楽を生業としている以上、クライアントのリクエストに沿ったものを提供するのは義務だと思います。状況によっては双方の価値観が異なることもあるわけで、その場合はクライアントが満足するように努めます。それを「職業音楽家」と呼ぶのでしょう。
「職業音楽家」と「アーティスト」は音楽を媒介にすることは共通するもののと、根本的には成り立ちも本質も異なるものだと思います。
「アーティスト」活動をしたければ、パトロンを見つけて好きなことをやらせてもらうか、自費で好きなことをやるかのどちらかしかないように思います。
前者はある意味「プロ」で後者は「アマチュア」という括りが出来るかも知れません。
ボクは数年前からソロ活動に関してはその後者の選択をしています。別に職業音楽家がアマチュア活動することが矛盾した行為だとも思わないですし、自分が憧れ目標にしてきた前人達もその道を選んでいますし。
要するに「音楽」するのでもクライアントの為に作るものと自分の為にするのとでは当たり前だけど作る時の内容は勿論のこと、環境、状況、結果は違ってきて当たり前のことだと思ってます。
この不景気でクライアントの為に作るものに対してが何かと条件(経済的、時間的な側面)が厳しくなったけれども、自分の為に作ることに関しては逆に作りやすくなったように実感しています。
「職業音楽家」と「アーティスト」は音楽を媒介にすることは共通するもののと、根本的には成り立ちも本質も異なるものだと思います。
「アーティスト」活動をしたければ、パトロンを見つけて好きなことをやらせてもらうか、自費で好きなことをやるかのどちらかしかないように思います。
前者はある意味「プロ」で後者は「アマチュア」という括りが出来るかも知れません。
ボクは数年前からソロ活動に関してはその後者の選択をしています。別に職業音楽家がアマチュア活動することが矛盾した行為だとも思わないですし、自分が憧れ目標にしてきた前人達もその道を選んでいますし。
要するに「音楽」するのでもクライアントの為に作るものと自分の為にするのとでは当たり前だけど作る時の内容は勿論のこと、環境、状況、結果は違ってきて当たり前のことだと思ってます。
この不景気でクライアントの為に作るものに対してが何かと条件(経済的、時間的な側面)が厳しくなったけれども、自分の為に作ることに関しては逆に作りやすくなったように実感しています。
職業音楽家のはしくれとして
目の前の音を紡いでいくことで精一杯で、失望したり、落胆したり、憂う余裕は私にはないです。とっても個人主義なのかも知れないのですが、目の前にある「音」と戯れている時、過去や未来の色んな事が見えなくなっちゃいます。(曲を書いている時はその曲が素晴らしい仲間達と奏でていることは想像してますけど。)それが良いことなのか良くないことなのかは自分でもわかりませんけど。
自分が失望したり、落胆したり、憂うことでボクの目指す音楽が作れるとは思わないのです。
自分が失望したり、落胆したり、憂うことでボクの目指す音楽が作れるとは思わないのです。
2012年05月27日
2012年05月07日
「緩める」ことの方が難しい
自分が目指すべき国内外の先輩方を拝見して、彼ら全てに共通していると感じることは「緩める」ことの達人であるということ。それは精神的にも肉体的にも。特に「筋肉」に関しては「固く」なく「柔らかい」。そして張りがある。それは高いアヴェレージで継続していく為の絶対条件。アタマの中では理解してもなかなか思うようにそう簡単にはいかない。「緩める」ことは簡単そうに思うが実は「緊縮」するより遥かに難しい。
2012年04月30日
必要以上のテンションを高めない
いつも楽器を演奏して痛感することは、楽器というツールを上手く使いこなす為には力まず、きちんとフォーカスすることに尽きるようだ。ここで難しいのは力まないということは力を入れないということではなく、最低限の力で動かすということと無駄な力を使わないということ。無駄な力を使うことやカラダのテンションが必要以上に高くなることは機能的な動作の妨げになるようだ。加齢によって筋力が落ち、また瞬発力の低下によって自然と力んでいられなくなるかも知れないが。現状の自分にとってはもっとテンションを下げる訓練をした方が良さそうだ。
2012年04月21日
エンジンがかかったら一気に
仕事も含めて日常生活の中で面倒臭いことも多々あるわけで、出来ることなら避けて通りたいのが世の常というものです。実際そうやってずっと棚上げにしていたことも多数あって、でもそれをやらなければならなくなり必要に迫られてやってみると、意外に難しくなかったり、とてもシンプルなことだったということに気がついて、もっと早くから取り組めば良かったと後悔することもしばしばです、私の場合は。
面倒臭いことに取り組む時にはそれなりの気合いを自分にかけないと重い腰を持ち上げられないのですが、一旦始めると作業自体のスピードもついて一気に片付いたりします。エンジンがかかったら出来るだけリズミカルに進行させて一気に雑多諸々の面倒臭いことを片付けてしまうことがコツみたいです。
面倒臭いことに取り組む時にはそれなりの気合いを自分にかけないと重い腰を持ち上げられないのですが、一旦始めると作業自体のスピードもついて一気に片付いたりします。エンジンがかかったら出来るだけリズミカルに進行させて一気に雑多諸々の面倒臭いことを片付けてしまうことがコツみたいです。
2012年03月14日
信用回復
東日本大震災直後に政府や東電が公式発表していた原発事故に於けるさまざまな事実がその後になり大きく訂正され、事実とは異なったことを発表していたことが明白になったことは周知の事実です。それは彼らの保身の為なのか国民のパニックを防止する為についた嘘なのかは分らないが、意図的についた嘘だったということももはや周知の事実でもあると思われます。
結果的に、今更事実を公表されてももはや不信感や不安感を煽るだけになってしまいます。もっとも公的機関でありモラルの高いはずの政府や東電に対する信用はこれによって一気になくなりました。
この件に限らず「失われた信用をとりもどすことは非常に困難である」ということです。
かなりマイナスなところからリスタートをきるので新たに事を起こすことより遥かに大変だし、取り戻せない可能性も高いと思います。例え不可能であっても、対象者に対して真摯に詫び、改善努力、賠償努力に尽力することは彼らの義務だと思います。それらによって被害を被った者は、それらの出方を傍観しつつその後の対応を練るわけですが、こちらにそれらを選択しなくても大丈夫な類いに関しては、それらを選択しなければ済みますが、公的な機関のような今後もそこと関わらざるを得ないような場合はこちらから、それらの悪しき体質を指摘して是正するよう促していくことしか方法はないように思います。
社会人になって四半世紀以上経つので、世の中には必要悪があることぐらいは理解出来ますが、それにも限度があると思います。
散々、故意に対象書に対して虚偽を行なっていた者から、これから改めるので信用してくださいと言われても一般常識的に信用できるわけがありません。信用回復するためには、信用回復が不可能だと思っていても献身的な態度で改善に取り組むしかないと思います。そこで必要悪と言って逃げてはいけません。それがその者達の義務だと思います。
結果的に、今更事実を公表されてももはや不信感や不安感を煽るだけになってしまいます。もっとも公的機関でありモラルの高いはずの政府や東電に対する信用はこれによって一気になくなりました。
この件に限らず「失われた信用をとりもどすことは非常に困難である」ということです。
かなりマイナスなところからリスタートをきるので新たに事を起こすことより遥かに大変だし、取り戻せない可能性も高いと思います。例え不可能であっても、対象者に対して真摯に詫び、改善努力、賠償努力に尽力することは彼らの義務だと思います。それらによって被害を被った者は、それらの出方を傍観しつつその後の対応を練るわけですが、こちらにそれらを選択しなくても大丈夫な類いに関しては、それらを選択しなければ済みますが、公的な機関のような今後もそこと関わらざるを得ないような場合はこちらから、それらの悪しき体質を指摘して是正するよう促していくことしか方法はないように思います。
社会人になって四半世紀以上経つので、世の中には必要悪があることぐらいは理解出来ますが、それにも限度があると思います。
散々、故意に対象書に対して虚偽を行なっていた者から、これから改めるので信用してくださいと言われても一般常識的に信用できるわけがありません。信用回復するためには、信用回復が不可能だと思っていても献身的な態度で改善に取り組むしかないと思います。そこで必要悪と言って逃げてはいけません。それがその者達の義務だと思います。
2012年03月10日
流れに身を委ねる
音楽のことではあまり悩まないが、それ以外のことに関して自分にとって障害物と思しき物に対座した時に、それを強行突破するか、避けて通るか、対象が動くまで静観するかという判断に悩むことがある。「音楽」に関してはキチンと自分なりのポリシーがあるからなのか、こういった類いの悩みはない。どこかで「音楽」以外はどうでもいいと思っている自分が居るのかも知れない。寧ろ常に自分の中での葛藤だったりする。いずれにしても自分の向かうべき方向がちゃんと定まっていれば自分がどんな状況になったとしても必ず快方へ向かうはずだと思うようにしないと精神衛生上よろしくない。それでも自分の考える結果になったならば、それの結果を真摯に受け止めるしかない。ある部分では流れに身を委ねることも必要だ。
2012年03月04日
フォーカス
非常に個人的なことですが、以前は自分の嗜好、思考に合わないものに対して否定的だったのですがここ数年、それらに対してとても興味が湧いて、自分の中に受け入れることが増えてきています。自分自身が驚いています。それは単に自分が歳を取ったということで片付けてしまってもいいのですが、今迄以上にシリアスにものを見るという側面もあるので物事に対して寛容になったとも言い切れないのです。
それは自分のインプットの方法が変わってきているのかも知れません。以前はかなりピンポピンとにフォーカスしてインプットしてたのが、フォーカスを緩めて出来るだけ広く全体を見るようになってきたように思います。
自分の今迄の価値観よりも幅が出てきているとしたら素晴らしいことだと思います。とかく物事に対して疑心暗鬼になるあまりについ「否定的」に物事を見てしまいがちですが、「肯定的」に捉えているほうが幸せだなと思うこのごろです。
とはいえ「否定的」発想はある意味、自己防衛の現れでもあるので、これが欠如してしまっても困るわけですけれども。
「フォーカス」の度合いを強くすることはカラダに置き換えるならば筋肉の「緊張」のような
ことだと思います。筋肉を付ける為には「緊張」し続けるのではなく、キチンと「緩和」の時間を作らないと筋肉を痛めてしまうそうです。視力で言うならば近いところばかりをずっと長時間見るあまりに近視になってしまうようなことでしょうか。手先の作業をする合間に遠くをぼーっと眺めることの重要性は「インプット」のことに関しても当てはまるような気がします。そうすることで、経験値が増えることで失いがちな「フォーカス」の範囲の幅や強さを調節する機能が衰えることはないと思います。
それは自分のインプットの方法が変わってきているのかも知れません。以前はかなりピンポピンとにフォーカスしてインプットしてたのが、フォーカスを緩めて出来るだけ広く全体を見るようになってきたように思います。
自分の今迄の価値観よりも幅が出てきているとしたら素晴らしいことだと思います。とかく物事に対して疑心暗鬼になるあまりについ「否定的」に物事を見てしまいがちですが、「肯定的」に捉えているほうが幸せだなと思うこのごろです。
とはいえ「否定的」発想はある意味、自己防衛の現れでもあるので、これが欠如してしまっても困るわけですけれども。
「フォーカス」の度合いを強くすることはカラダに置き換えるならば筋肉の「緊張」のような
ことだと思います。筋肉を付ける為には「緊張」し続けるのではなく、キチンと「緩和」の時間を作らないと筋肉を痛めてしまうそうです。視力で言うならば近いところばかりをずっと長時間見るあまりに近視になってしまうようなことでしょうか。手先の作業をする合間に遠くをぼーっと眺めることの重要性は「インプット」のことに関しても当てはまるような気がします。そうすることで、経験値が増えることで失いがちな「フォーカス」の範囲の幅や強さを調節する機能が衰えることはないと思います。
2012年03月02日
Ballade
私の私見です。どんなに練習を積んでテクニックを上げても、バラードを演奏することに関して、奇麗なフォームの演奏は出来るようになっても、聴く者が心を打つような演奏が出来るようになるわけでないと思います。それはバラードというのは演奏するものの本質が見えてしまうものだと思うからです。心に沁みるバラードと演ることに関しては訓練して出来るようになるわけではなく、その演者がどれだけ「陰」を持っているかが、人の心に訴えかけるバラードが演奏出来るかどうかを決めるのだと思う。または、天性の領域のことだと思う。いずれにしても訓練することで出来るようになることではないと思う。つまりその人のバラードの演奏を聴くことで、その人の表現者としての資質が見えてしまうということなのかも知れない。ある意味、残酷なことだ。
2012年02月22日
新譜
マーカスミラーのアルバムが5年ぶりにリリースされると案内がきた。「えっ?!あのマーカスが5年もソロアルバム作ってなかったの?」
という驚き。よくよく考えてみるとインストもののアーティストのソロアルバムは以前は一年に一枚リリースしていたのが、ここ10年間でリリースのペースがかなり落ちている。そして大物アーティストであればあるほどその傾向が顕著のような気がする。それとは反対にプロ擬きの自主制作ものは乱発する印象がある。
それはレコーディングすることのハード面のハードルが下がってきたからだと思われる。それに伴い誰でも気軽に作れるようになった為にアーティスト自身(ソフト)のハードルも下がったとも言える。
自分はやりたいフォーマットが多いので出来るだけ多くのアルバムをリリースしたいのですが、安易にハードルを下げてそれを達成する気はない。
という驚き。よくよく考えてみるとインストもののアーティストのソロアルバムは以前は一年に一枚リリースしていたのが、ここ10年間でリリースのペースがかなり落ちている。そして大物アーティストであればあるほどその傾向が顕著のような気がする。それとは反対にプロ擬きの自主制作ものは乱発する印象がある。
それはレコーディングすることのハード面のハードルが下がってきたからだと思われる。それに伴い誰でも気軽に作れるようになった為にアーティスト自身(ソフト)のハードルも下がったとも言える。
自分はやりたいフォーマットが多いので出来るだけ多くのアルバムをリリースしたいのですが、安易にハードルを下げてそれを達成する気はない。
2012年02月21日
意外に常識って普遍的なものではないかも
私が子供の頃、つまり40年近く前に、運動で故障した肩は冷やしてはいけないとか、うさぎ跳びを訓練としてしていたり、現在の常識とは正反対なことが定説とさせていた。つい最近も、今まではちゃんと毎食後に歯を直ぐ磨くべきだと言われていたことが、実は食事後直ぐは口の中が酸性になっている為にあまり歯ブラシでゴシゴシ磨くと歯のエナメル質を傷つけるので一日の最後に1回だけ丁寧に磨く方がいいという説が巷を賑わしている。いわゆる、こういった新説は眉唾物も多いのだけれど、身体における定説が簡単にひっくり返ってしまうという事実もあるのは見逃せない。人は身体に関わる情報には敏感で、特に生活習慣病やダイエットに関する情報は直ぐに飛びつく傾向があり、最近ではトマトが肥満防止に効くとかで、スーパーではトマトうやトマトジュース売り切れになったこともあるようだ。
しかしあれだけ何十年も前に理路整然と「これは正しい」と言っていたことが、真逆に引っ繰り返るという事実を見るとなんだか全ての常識に対して懐疑的にならざるを得ない。だからこそ、色んな価値基準に幅を持たせることが必要なのではないのかなと思ったり。
しかしあれだけ何十年も前に理路整然と「これは正しい」と言っていたことが、真逆に引っ繰り返るという事実を見るとなんだか全ての常識に対して懐疑的にならざるを得ない。だからこそ、色んな価値基準に幅を持たせることが必要なのではないのかなと思ったり。