2011年09月18日

寿命

自分よりも年下の知人の訃報がこんなにも短期間で沢山あると自ずと自分のピリオドについて考えないわけにはいかない。早すぎる死に対しては元来持って産まれた個々の寿命なのだと思うようにするようにしている。大病を患っていない身として、自分の寿命を知る由も無い。だからこそ今、自分に与えられている時間、チャンスは大切に、有効に使わないといけない。

と言うか自分が48年間生きているということが奇跡的だ。

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2011年09月07日

綴る

前回のブログにも書いたが、後輩の急逝を受け止めることが出来ない。生前に彼が綴っていたブログをあらためて読み直してみた。すごく久しぶりに仕事場で再開しお互いが帰省した際に呑みに行ったこと、この間のライブに聴きに来てくれたこととかも綴ったあった。普段、滅多に会うことがないからこそ、彼の「死」に対して実感が湧かないのだと思う。こうやってブログを読み返して「ああ、もう居ないんだ。。」とアタマの中で納得させるだけ。ブログを書くことが一般的になった今、この「ブログ」という存在は故人を知る上でとっても重要な媒体だ。そうやって「点」と「点」を繋ぎ合わせて「線」にすることが出来る。我々の業界に居ながらプロダクションやレコード会社、出版社などからの発信でなく本人が直接発信していることって、とても対外的に対しても自分に対しても一番ダイレクトなソースとなる。ブログを書くという行為は各々の価値観、目的に寄るものだけど、ボクは将来自分が居なくなっても、自分が存在していたということの証を遺して色んな人たちに自分という存在を思い出して欲しい為に、無意識にこうやって毎日ブログを書いているのかも知れない。それは曲を書いたり、自分のバンドで演奏することも同じことだ。

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2011年08月17日

プレイバック考

基本的にボクは自分の演奏を出来るだけ録音してプレイバックするようにしている。個人練習もリハーサルも本番も。それは自分の演奏をリアルタイムで客観的に判断するには難しいと思うからだ。特にボクのような色んなジャンル、環境下で演奏するものにとってそれぞれのシチュエーションで若干演奏自体も付加的要素も修正が必要になる。アコースティックなサウンドでPA 無しでの演奏は比較的自分の想像と実際の演奏の差異を大きく感じないが現在進行中のツアーのようなイヤホンモニターを頼りにする場合はかなりサウンドのイメージが違ってくる。アリーナでの演奏では当然会場で自分の生音が聞こえるハズもなく、スピーカーから出る音が全てとなる。そこでより良いサウンドを出す為にはそれなりのコツがある。例えばマイクテクニックを上手く使うこととか。
同じ環境下でもホーンセクションにおけるトロンボーンの音域や役割によって随分バランスが変わってしまう。これは常に演奏を録音してチェックして改善するという作業の繰り返し。その際、録音した音源がラインのものなのかエアなのかで随分ニュアンスが違ってくるので、PA バランス、特性をちゃんと理解しないと創意工夫が徒労に終わる。経験値がものをいう部分だ。

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2011年07月22日

まさに徒然。

プロとしてインスト音楽を四半世紀ほど関わってきてこのインスト業界に関して色んなバランスが変わってきていると実感する。特にバブル弾け、そしてリーマンショック以降、音楽のメディアがダウンロード系の台頭、メディアの販売形態の変遷によってパッケージの在り方、ライブの在り方の立ち位置が逆転していたような気がする。それはCD制作メーカーの弱体化にも起因することかも知れない。
一昔前はレコード、CDを発売した際、プロモーションの意味合いで発売記念と銘打ってライブをでっち上げるケースが多かったが、逆に最近ではライブの集客の為のツールとして音源を作るといったようなニュアンスの動きが見える。勿論、それはそれぞれが平等に必要不可欠なものではあるが、そのバランスが最近でが微妙なような気がする。暴言を承知で言っていまうならば、大手プロダクションのアーティストでない限りはCD制作費はメーカーが負担することで売り上げのロイヤリティの多くはメーカーに入ることになる。勿論、アーティストに対してもロイヤリティは派生するがそれは微々たるもの。それは当たり前の話で、お金を出している者がそれを回収しようとするのは至極当然のこと。インスト音楽を生業とする者にとってはCDのロイヤリティでは潤わない。結果的に先生業やポップス関係、TV関係のレコーディングやライブを行うことによって得る対価で生計を立てるのがもはや一般的なインストプレイヤーのライフスタイルのような気がする。また年々ライブでの収益が生計のバランスの多くを占めるようになってきているのも事実。しかもこんな景気のよくない時代に集客ということに関してアタマを痛めているプレイヤーも多いと思う。そこで必要になるのはライブの集客の為のプロモーションツールであるCD。非常に切ないが、もはやそれは作品であるとともにツールでもある。ライブをする以上にCDを作ることが気安く出来るようになってしまったためにCDのクオリティのバラツキが出てしまい、本来なら作るべきでないCDが巷に氾濫している。その手のものは作品というよりは、寧ろツール、アイコンと言うべきものだろう。でもそれが悪いということも一概には言えずなかなか難しい。CDも含めネットでの流通が細分化、特化することで流通に関する矛盾が発生している。アーティストなんてのは基本的に我が儘なものでとにかく常に自分のやりたい音楽を大勢の賛同者の前で披露したいもので、それがそのようになればいいが現実はそんなに甘いものではない。それはインスト音楽という売り上げ枚数でいうならばマエノリティにカテゴライズされてしまう分野にいる以上、自分のやりたいことと経済活動との折り合いの関係調整は果てしなく続くよ何処までも。

いずれにしてもCDはちゃんと作品として作り続けていきたいし、ライブでは大勢の方の目の前で最もリアル(現実)な音を体感して欲しい。何だか非常に当たり前のようなことを言っているがなかなかそうは簡単に行かない。もしも100%自分の思い通りにやりたければ自分が出資をしてCDを作り、ライブにおける赤字補填も全て自分が被る。その為に、他の部分でそれにかかる費用を捻出する。これしかないね。実は「村田陽一オーケストラ」のアルバムを自主原盤でリリースしてからの自分のスタンスではある。色んな人たちと作るということは、それぞれのポジションが違うだけに満場一致とはいかないもの。それは良い意味でも悪い意味でも妥協とも言える。まぁ、妥協が全て悪いということでもないが。インスト音楽に関わらず全般的にCD制作に関して大勢のスタッフが関わることで収益が増すとももはや言えないので大手メーカーではなくインディーズでの活路をわざわざ選ぶ人気ポップアーティストもいる時代でもある。いずれにしてもYouTubeやUstreamなどのツールの台頭でアーティスト本人がダイレクトにユーザーに情報を提供するするようになってきていて、それはある意味この時代に於いては最も正論のような気がする。

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2011年07月18日

水戸黄門

超長寿番組が幕を閉じることになったらいしい。視聴率の低迷。それに伴い不景気も手伝いスポンサーが降りることによって継続出来ないというのが一般的な理由。

自分が小学生の頃には祖母、両親と共に何となく見ていたが、積極的に見た事がなかった。とは言え、もう見られないかと思うと少し寂しい。個人的には圧倒的に東野英治郎の黄門様が一番馴染んでいた。

自分が見ていない割には、この番組の必要性を常に感じていた。それはある一定のニーズが常に存在していると思っていたからだ。つまり自分が黄門様位の年齢になった時もやっている類いのものだと思っていた。シニアの世代さえ黄門様を見なくなったということなのだ。

今も「水戸黄門」は必要だと思う。私は見ないけど。

必要だと思っているのだったら自らチャンと見て啓蒙しないといけなかったんだと思う。

こうやって直接自分にはあまり関係のない、でも必要なものが資本主義の流れで消滅していく。

これはテレビ番組に限った事ではない。

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2011年06月27日

ひかり

とかく最近ブレがちなのもめずらしく体調不全に因るところも大きいのだろう。「健全な身体に健全な心宿る」とはよく言ったものだ。

たまに、向かうべき方向を見失う時があるが、そういう時は、今自分が出来ることに対して真摯に取り組むようにしよう。

そしたら、その先に光が見えてくるだろう。

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2011年06月16日

天注組

今から24年前の1987年の新宿ロフトでのライブ。当時24歳。つまり今の年齢の丁度半分。この「天注組」というバンドは当時活動していたじゃがたらというバンドの交友関係から派生して参加させてもらっていた。勿論最年少。当時色んなバンドに在籍していたが結局将来的にビジネスで成功しそうなバンドに対して興味が薄れた。というよりは若気の至りからそのバンドに対して嫌悪感すら持っていた。そしてそういった類いのバンドを次々に脱退し、じゃがたらやこの天注組といったある種アンダーグランド的なバンドに魅せられていった。今の自分の活動しか知らない方はかなり意外に見えると思う。勿論、これらで生計が立てられるわけもなく、専らレコーディング仕事で生計を立てていた。つまり24歳ぐらいの時からスタジオミュージシャンをしていたわけだ。でも自分の音楽的な立ち位置は、こちらのバンドだった。今になっても今の自分はここが原点だと断言出来る。非常に精神性の高い環境だった。ここで学んだことが今の自分を形成している。楽器のスキルや知識なんてのはあくまでも後付けでどの環境でも身に付くことができるが、この精神性に関しては、いわゆる「お仕事」じゃなくこれらの「バンド」でなければ身に付かなかった。これがあるから音楽に対してずっと貪欲でいられるし、自分自身を音楽を奏でることに投影出来ているのだと思う。本当に貴重な映像だ。恥ずかしいけれども、24年前当時の等身大の自分がそこにいる。





日時: 1987年10月21日
場所: 新宿ロフト
Performers: 石渡明廣(gtr), 村田陽一(trb), 吉田哲治(tp), 時岡秀雄(as), 篠田昌已(ts), 早川岳晴(bs), つのだ健(ds), 千野秀一(key)
記録: 中尾勘二
Courtesy: 佐竹美智子, 石渡明廣,

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2011年06月14日

iTunesの使い方

ボクのホームPCには25000曲程度のデータが入っていて、それをiTunesでコントロールして聴いてる。勿論、iPhoneやTouch、Podにもそれは同期している。非常にiTunesは便利なツールだ。それによって一日中音楽に溢れる生活を送ることができる。そして通常、ボクの場合はシャッフルモードにしている。つまりアーティストやアルバム、ジャンル関係なくランダムに曲を再生している。だからラヴェルの後にクリムゾンの曲がかかることもある。それはなかなか刺激的で面白かったりする。でもこれはある意味、消極的な音楽の聴き方とも言える。

最近は積極的な曲の聴き方が減ってきていることに若干危機感もあり、就寝時には一枚のアルバムを曲順通りに聴くようにしている。「ながら」ではなく聴く行為をメインにするということ。実際そうしてみて感じることはやはりアナログ盤で制作されてその後CD化されたものを収録順に沿って曲を聴くことが非常に心地よいということを改めて感じた。アナログ盤はテクニカル面の事情でA面B面それぞれ20分程度の収録しか出来ない。つまりそれを一枚のCDに収録したとしても40分程度ということになる。これは集中力が持続出来る限界の長さのような気がする。CDは74分程度の収録が出来るが、74分間連続で音楽を聴き切るなんていうのは実際問題不可能に近いのではないのか?アナログ盤を制作する時はアルバム一枚としてのストーリー性を重要視していたし、実際、曲順を決めることは非常に慎重に考えられていた。そうやって制作されたものはやはりその流儀にのっとって聴くべきだと思った。

PCで音源をコントロール出来るようになって管理(検索)など音楽を聴くことにおいての利便性が高くなった。それゆえに非常に消極的な行為にもなりやすくなっているようにも思える。知らない間にツールにユーザーがコントロールされるという技術革新の進歩とともに起こる副作用もあるので注意しなければ。

音楽を74分間で1つのストーリーを作るのはコンサート以外で作るのはなかなか難しいと思う。自分がアルバム制作をする際は60分間以内の分量にするようにしている。データが沢山入ることは非常に有り難いことではあるが、鑑賞に適切な分量というのは間違いなくアルバム盤程度の分量だと思う。ジャズにありがちなアウトテイクを沢山盛り込むような意味では目一杯沢山の曲を盛り込むのももちろん価値のあることだと思う。コレクターにとっては非常に有り難い。(とはいってもアルバムのストーリー性は完全に崩壊するが。)

利便性が高いからという理由でほとんどmp3フォーマットの音源を聴いている人が殆どではないだろうか?実際、ボクもiTunesを介して聴いている音源はmp3だ。音質、音色に拘るプロ音楽家としては失格かも知れない。このmp3の音質がデフォルトになってしまうのはヤバい。制作者は
最終的に作ったCD音源をユーザーがmp3にエンコードされることを意識して制作しているワケではないので、やはり制作者の意図とは異なる音色、音質で大多数の人が聴いていることになる。着うた配信ダウンロードなんてのはその最たるものである意味、それは「音楽」ではなくそれは単なる「符号」「記号」なのだと思う。それはそれで否定しないが、ちゃんと聴きたい曲はやはりちゃんとCDで聴かなければいけないと思う。

とはいえiTunesの優れた機能は利用しない手はないので、用途に合わせてこのツールをちゃんとコントロール出来るようになりたい。

このツールとユーザーの関係は全てのことに当てはまる。もちろん楽器とプレイヤーとの関係も。

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2011年06月10日

シーソーゲーム

人は誰でも個人差はあれど「刺激」を求めるのではないだろうか?刺激を求めることでマンネリズムを打破したり現状の改善、軌道修正をするきっかけにもなり得る。手っ取り早く刺激を受けには非日常的なシチュエーションに自分の身を投じればいい。それは未開の地に1人で行ったり、誰も知らない集団、バンドに1人で入り込んだり。それはある意味、自分の抱えている物を全て捨てて丸腰で臨むということ。
自分はそういうシチュエーションを自分で作ってきた。その時は心臓が喉から飛び出してしまいそうな程、心臓がバクバグした。しかし結果的にそれが今の自分を作ってきた大きな要因になっていると思う。

自分には「安定」志向が全くないとは言えないが、「刺激」が自分の物を作る上でのいいスパイスになるのを知ってしまっているので、絶えず刺激を求めてしまうのかも知れない。

最初は刺激的だったことが、それを繰り返すことで、それが刺激的でなくなる。だから刺激を求めてエスカレートしていく。

非日常に身を投じ、それを一定期間維持すれば、それが日常になり、以前の日常が非日常になる。

だから永遠に「刺激」と「安定」の関係はシーソーゲームのようなもの。

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2011年06月07日

時間の流れと自分の行方

昨日訪れた「知林ケ島」の光景が未だ脳裏から離れない。人が殆ど居ない自然の場所に行くと時間の流れが普段の雑踏の時とは全く違う。ゆっくりゆっくり流れていく。それは瞬時にして変化するようなものがそこにはないからなのか?周りを気にすることもなく木々、動物、海、山はペースを乱すことはない。それらのペースは我々よりももっともっとスパンの長いサイクルのペース。そんな所に自分の身を委ねると自分が完全にその中に埋没するようだ。いくら自然があっても人間の暮らしがそこにある場所ではこういう体験はしない。


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そして住み慣れた街を離れて初めて着た場所でいつも思うことは、もしもこの地に産まれ育ったとしたら今の自分はどうなっていたのか?どんな人たちと関わってどんなことをしていたのか?もっと飛躍して「どんな人生を歩んできたか?」を想像してしまう。今の「音楽家」である自分に何も不満はないけれど、別の地で別の歩みをしていたとしたら、それはそれで幸せだったのかも知れない。特に時間の流れがゆっくりの未開の地で一生を過ごすのも幸せだったかも知れない。今の仕事を続けながらそういった土地に移住するのでは自分にとってはあまり意味がないかもしれない。全然今とは違う人生もいいかも知れない。そしてもしその地に住むのならゼロからスタートしたい。

とにかく昨日の経験が自分にはとても強烈で今自分は現実と妄想を行き来している状態だ。でもそれも悪くない。

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2011年05月26日

Intro

「前奏」
曲の導入部。つまりメロディに入る為のもの。曲の雰囲気を決定付けるとても大切な部分。編曲の良し悪しはイントロで決まると言っても過言ではない。
またいわゆるヒット曲はイントロが印象的、キャッチーなものが多い。

自分のセッションの時にイントロなしで、いきなりメロディを吹き始めることも多々ある。特に自分のオリジナル曲に関してはその傾向が強い。イントロで自分の思い描いているイメージと異なる演奏をされてしまうと違うイメージで曲が進行してしまうので、それを避ける為だ。

アレンジを生業とするキーボーディストやギタリストが初めて演奏する曲を迅速に理解し、それを踏まえた上で即興的に弾くイントロのフレーズでその人のアレンジのセンスが解る。

もちろん自分でもイントロを書く時は神経を使う。

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2011年04月22日

音場と演奏者

昨日の名古屋2日目は初日に増して音環境が慣れたことで演奏もよりスムーズになった。今日はオフ日ということで、先日もお世話になった地元の楽器屋さんのレッスン室をお借りして練習。実は先日、そこで練習をしていて演奏の調子がなかなか整わず若干心配になった。が、昨日のコンサート会場の楽屋やステージで演奏するとその心配はなくなった。端的に言うならばレッスン室が極めて響きのない部屋だったせいだったからだと思う。楽器を変えてから楽屋とステージという極めて偏った音場でしか演奏していなかった為に異なる音場に対して自分が新しい楽器のコントロールが上手くいかなかったということ。今日も最初は慣れなかったものの後半は順応して、いつも通りにコントロールすることができた。多分、以前使っていた慣れている楽器ならばさほど苦労せずに音場に順応出来たと思う。僕は色んな音場で演奏する機会が多い。響きの少ないスタジオ、ライブハウス、コンサートホール、アリーナ、ジャズクラブ、etc....。知らず知らずに音場によって自分がかなり演奏する際に微調整しているということが、慣れていない楽器を演奏することで実感出来た。そして上手く演奏が出来ていない時は自分のどの部分が欠落しているかもわかるようになったので、ここ数日は勉強になった。いずれにしてもマイクを使う使わないに関わらずきちんと楽器を鳴らすことが重要だ。(自分の場合は)

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2011年04月06日

アドリブだって作曲のうちのハズ。

5年ほど前に書いて簡易的なうち込みをしトロンボーンソロをダビングした曲をリレコーディグする日々。その5年前に簡易的にレコーディングしたトロンボーンのアドリブソロを人に委ねて採譜してもらった。譜ヅラを見ても何かピンとこない。とはいえ、これが自分の咄嗟に作曲したフレーズということだ。譜面にすることでより一層自分のクセがわかる。そして今日はその採譜された楽譜を見て再びそのフレーズをリレコーディグしてみた。実にぎこちない。(笑)とはいえ、演奏中にイマジネーションして瞬間でフレーズを考え演奏することはないので、これまた色んな発見があった。レコーディングを前提とした時、果たして即興演奏というのは意味があるものなのかと常日頃考えるが、自分の出した結論として最終的にソロをダビングするのならば、既にあるトラックに一番フィットするソロを用意していくほうが音楽的であろう、ということ。それはいわゆるスタジオ仕事でもそうで、リズムトラックの上にホーンをダビングする時も、リズムセクションとの相性がいいような演奏を心がけているし、それが一番良心的だと思う。だから状況によっては必ずしも正確なリズム、音程ではなくてもある程度、そちらに合わせることになる。いわゆる整合性をとるということだ。
ダビングが主流となるレコーディングではある意味、先にやったもの勝ちで、つまり後からダビングしていく人たちは先人の音に合わせていくのである意味縛りがキツくなる。とはいえ、最後の最後にダビングする人が全体のイメージを決定したり変えたり、ある種の化学変化を起こすことがある。それは素晴らしく個性的なヴォーカリストだったり演奏者だったり。
それを目の当たりにしたのはSOLID BRASSの「Double Edge」でのデヴィッドサンボーンのチャーリーミンガス曲「Goodbye Porkpie Hat」でのメロディとソロのダビング中のことだ。彼のサックスが最後に入っただけで、そのトラックは全てサンボーン色一色に染まる。これはソリストとしての最も高い目標だと思うしソリストはそうでないといけないとも言える。その時も他の時もサンボーンのソロダビングに何回か立ち会ったが決して即興演奏ではなく、そのトラックにフィットしたフレーズを紡いでいくという感じ。だから何度もやり直す。これはジャズプレイヤーにはない発想で極めてヴォーカリストのようなアプローチだと思う。勿論、インプロヴィゼーションはジャズや現代音楽に於ける最大の魅力であり、最大の芸術だと思う。しかしそれはあくまで同じ時間軸の中で共演者とともにライブすることに尽きると思う。つまりダビングでの即興演奏はあまり有機的でないような気すらする。
というモードに今なっているで暫くこれを掘り下げていきたいと思う。

蛇足ではあるけれど、JJ.Johnsonの大ファンであるのが高じて彼のあらゆる音源を集めていた時期があったが、ライブ盤に関して2コーラス丸々同一のブルースソロが幾つか存在する。だから即興演奏だとは言い難い。(が、JJはそれをボクに否定していたけれども)何もそれが即興演奏でなくても、あらかじめ用意していたといしてもそれを悪いことだと思わない。実際、ジャズ演奏家の殆どはあらかじめ身に付いたフレーズをシチュエーションに合わせて組み合わせりはめ込んでいるわけで、フレーズ自体を即興で考えているわけではないと思うから。そのフレーズの選択のセンスがアドリブプレイヤーのセンスに直結するし、実際優れたアドリブプレイヤーは機転の利くアタマの回転の速い人ばかりだ。

だったらじっくりシチュエーションにフィットしたフレーズをきちんと作曲するばいいのだ。

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2011年02月16日

アタックとアタックスピード

連日のリハーサルも終わりいよいよツアーもスタートするので楽しみ。毎回のリハーサルの音源を聴きつつ自分の演奏に関してあれこれ考えるが、アリーナというとてつもない大きな会場、沢山のエレクトリック系の楽器との共存は面白みもある反面、通常の意識とは違う部分で演奏することも余儀なくされる。我々ホーン隊もモニタースピーカーではなくイヤホンモニターを使用。1人一台づつ自分専用のミキサーがあるために非常に助かる。とはいえ、トロンボーンという楽器はホーンセクションの中でもアタックスピードが遅かったり、音域的に丁度ギターの中低音と帯域が被ることもあって、なかなかトロンボーン単体の音が抜けて聴こえることが難しい。つまりホーンセクションをひとまとめとして考えるとトロンボーンの音が埋没してしまいがちなので、通常のコンセプトとは違ったアプローチを考えないといけない。具体的にはマイクにベルを近づける。(本来、楽器は楽器全体から音を出しているのである意味、ベルだけの音は本来の音とは違うがそんなこと言ってなられない。できるだけ他の楽器の音との干渉を防ぐ為だし、音が聴こえてなんぼなので、これは正しい選択。)そしてアタック。つまり通常よりもタンギング、発音を強くして演奏。そしてアタックスピードを出来るだけ早くすること。
しかしこれはあくまでもコントロール内において意識的にしないとマズい。というのも他のジャンル、環境では異なるからだ。無意識に強いアタックしか出来なくなるのはかなりヤバい。それ故に、ノータンギングや小さい音量の練習は常に並行しておかないと他のジャンルのものに支障が出る。

ぶっちゃけ楽器をジャンルごと、環境ごとに変えてしまうというのもあるし、即効性もあるが自分のポリーシー、流儀に反するので常に同じ楽器で演奏する。自分の選ぶ楽器はやマウスピースが最もスタンダードなもの、セッティングにしていることの成せる業とも言えよう。何かに特化したものは往々にして他の部分が欠落しがちだと思うので。色んなことをやりたいボクのような欲張りにとってはそれが正しい選択だと思う。


実際リハーサルを重ねていくことで、かなりいい感じになっているのでツアーでの演奏の方向性はこれで。

という自分にとっての備忘録でした。

色んなジャンルで演奏したいトロンボーンの方、ご参考までに。


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2011年02月13日

ことば

ことばって時代時代で変化していると常々感じていて特に日本人として生まれた者として母国語である日本語の変化にはやはり色んな思いがある。その時代の風潮、風俗、概念でことばが変化するのは当たり前なことで、それに関して肯定も否定もしない。ことばも生き物だと思うから。

しかし今日、ふと思ったのが我々世代があと15年も経ったら自他ともに認めざるを得ない「年寄り」になるわけで、その時ボクは「ちゃりんこ」とか「マジ」とか「チャラい」とかの単語を間違いなく使うだろうから、ボクが今持っている「年寄り」像とは若干ニュアンスが変わってくるだろう。

というか、これからどんどん老齢化社会へと加速していく中、年齢的に見れば確かにそうだが近年になって肉体的、精神的ともに年齢的に「老人」と言われている世代は昔に比べて「老い」へのスピードの度合いがかなり緩やかになっているから、これからあまり世代という括りが緩くなるような気がする。それが良いことなのか良くないことなのかはわからないし、良いこともあれば良くないこともあるだろう。

まぁ、15年も経ったら既に「マジ」とかって単語がかなり古いものになっていて、あたらな造語が沢山蔓延していることでしょう。

奇麗な響きのことばはちゃんと遺していきたいから普段からちゃんと使うようにしようと思った。どうも情緒を感じるもの、奥ゆかしいもの、間接的な表現のもの、含みのある表現に使われることばがどんどん無くなっていっているような気がした。省略化、簡略化が進んでいるということ?

確かにことばは「符号」という役割はあるものの、もともとはその成り立ちの為の深い理由があったはず。

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2011年02月07日

デスクトップ

ボクの使っているPC2台ともデスクトップにフォルダや書類が散乱している。去年10月に作成したものも整理せずにデスクトップに置きっぱなしだ。新しい作業が非常にやりづらい。これらデスクトップ上にあるものなど10分もあればきちんと本来のところに格納出来るのにやらない。散らかりっぱなし。これは部屋の中が散らかっているのと同じように本人の精神的な部分と大いにシンクロしていると言えなくもない。とりあえず明日にでもデスクトップの整理をしようと思う。

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2011年01月30日

使い分け

引き続きクラシック曲をさらう。いつもしているように練習を録音しては、それをプレイバック。これは、あくまで持論だけれどトロンボーンにおいてはジャンルは違えど音色や音質に関して、理想的な音はかなり共通項があるとう。明らかに異なるのはフレージング。(特にリズムのアプローチ)それが大きく起因するのはタンギング。これは言語のそれとかなり似ているような気がする。つまり、それぞれのジャンルの音楽を演奏する為にはそれなりの発音や言語を理解するのが最もマスターするための近道だということ。そして、それらは相反することでないということも。つまり言葉におけるバイリンガルのように音楽のジャンル間においてもちゃんと行き来が出来るとハズ。バイリンガルの人は無意識で相手の言語に合わせて言葉を選ぶことが出来る。それは音楽に関しても同様なハズだと思う。

いわゆる帰国子女や異国の地で幼少を過ごした人は比較的スムーズに母国語と居住国の言語両方習得する。それは幼少期という脳が極めてフレッシュな時期であるからで、成人になって新たな言語を学ぶのは結構大変。その為には、キチンと勉強して理解したり、その言語圏に身を投じるかして環境作りをするのが効果的なのは旧知の事実。これもまさしく音楽のジャンルを跨いて演奏を楽しむ為のマナーにもそのまま当てはまることだと思う。

だから好きだと言って沢山聴いているからといっても、そのマナー、ルールを理解していないとなかなか模倣の域を出ないとも思う。

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2011年01月28日

価値観

毎日マスコミで取り上げている芸能ニュースや政治問題って客観的に見ておかしいことだらけだと思うけれども、芸能界や政界というある意味特殊な世界は明らかに一般人の世界とは違うわけだから、最終的には別世界に関しては想像の域を出ないのだと思う。それぞれの世界にはそれぞれの常識や価値観があるわけだから異なる世界においては真逆な基準になっていてもおかしくない。だからこそ、いつまで経っても戦争が無くならない。でもそれぞれが違った価値観を持つからこそ、芸術の分野は面白かったりして。大きな括りで文化は多種あった方が面白い。

他者と交わりを持つことで一つの共通の価値観が生まれてくることが良かったり悪かったり。

結果的に思考や物事の平均化が起こる。それも良かったり悪かったり。

結果的にどういう行動に出ようとも、常にそこには自分の意志を伴わないと。

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2011年01月19日

情報過多

今年7/24に地上アナログ放送が廃止だという案内が常に私のテレビ画面下に表示されて若干煩わしい今日この頃。つまり未だ地上アナログ放送を見ているわけだが、先日じっくり地上デジタル放送を見る機会があった。画像がとにかく鮮明で建造物や景色を見るには非常にいいと思った反面、女優さんの荒れた肌状態や、それを隠すためにしているファンデーションの下からシミが見えたりして、かなり気の毒な感じ。ある意味、デジタル放送は女優の敵かも。ここまでディテイルを見せる必要性はない。画面がクリア過ぎて目も疲れやすいし。つまり情報過多なんだと思う。色んな意味でアナログのファジーで緩い方が好み。これは音楽もそう。
確かにデジタル放送はデータ関係での利便性も高いし音楽に関しても管理が楽だから、その恩恵は随分授かっているのだけど。(今や歌唱や演奏の能力がヘタな人にとってデジタルレコーディングは救世主だし必要性不可欠なものになった。)

いずれはデジタルをよりアナログっぽくする為の処理方が流行ったりして。

デジタルが皆の夢を壊すことになりませんように。


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2011年01月10日

成人の日

27年前の成人の日、当時の自分は大学二年生。当日は成人式も出ずにその日も朝から夕方までバイトをして、夜はバンドのリハーサルをしていた。よって成人の日を迎えることで大人になった自覚などまるでなかった。大人になったと実感したのは、やはり親からの扶養がなくなった時だったと思う。つま り、物質的、精神的自立が出来た時。だからある面においては今年の干支である卯年47歳のいいオトナが大人に成り切れていない部分も未だ多数。2回目の成人の日を迎えた頃はそれどころではなかったけど3回目の成人の日を迎える頃は自分はどうなっているのだろうと、成人の日の今日にふと思う。

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