2012年02月09日

ひねくれ者の戯言だけども

最近常々思うことの1つに

「色んなもののイイとこ取りをして作られたものって意外につまらなくて飽きが早い。少々不便な方が長くつき合える。それはコチラ側がそれに向き合おうとするから」

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2012年02月05日

「順列組み合わせ」よりも

作り手の端くれとして常にオリジナリティのあるものを作ろうと常日頃考えています。

作曲に関しては、それなりに持論があり、それをずっと続けてきています。それなりに結果が出ていると思っています。(それはセールスという意味ではなく、自分自身としての満足度という意味で。)

しかし、それを商品化(CD化)したりライブを行なったりすることに関しては、それなりに考えた方法論を展開しているものの、自分の想定しているものと結果に差が出ているというのが現状です。

それは当たり前の話ではあります。前者は自己完結するもの、後者は不特定多数に対して発信する、ある種のサービス行為だからです。前者のものをそのまま後者に投影するやり方でいい結果が出たら、それに越したことはないのですが現実はなかなかそのようにはなりません。そんな風に思いながら、もう20年以上が経とうとしています。

ライブに関して、「順列組み合わせ」の論理はある程度は有効だと思っていましたが、やはり組み合わせの妙というよりは、「個」のクオリティの向上を追求するのが自分の好みなのかなとも思いました。勿論、「個」のクオリティの向上の為の「順列組み合わせ」は当然必要だと思っています。このクオリティというのは「上手い」とかの意味もありますが、それは「オリジナリティ」「深み」「説得力」という意味合いも多大に含まれていると思います。

そして「付加価値」

それに尽きるような気がします。

これは「音楽」上であったり、音楽家として本質とは全く関係ない付加価値だったり。

とはいっても自分の出来ることには限界があるので、今まで通りにマイペースでやっていこうと思います。

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2012年01月28日

後天性

先日、初めてシュレッダーを購入した。未だ未開封。
去年の9月末に買ったパソコンも開封したのは今年に入ってから。
最近買ったバッグも。。
そして読もうと思って買ったにも関わらず読んでいない本も山のよう。

ということで買ってから暫くしないと開封しないのは恐らく小学生の頃から。小学生の頃はその対象がプラモデルとか。

これは食事で好物をとっておいてから一番最後に食べるという心理と共通するものがある。

こういった癖は先天性というよりは自分の生まれ育った環境による後天的気質だと思う。

この気質がいいことなのか悪いことなのか解らない。

でも大事な通知が含まれるようなものの時は非常にマズい。(同封されているものに期限付きのものがある場合とか。)

だからこれからはちょっとだけ早めに開封するようにしよう。

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2012年01月27日

キッカケ

新しい道に進む時(それが自発的なものであっても偶発的なものであっても)は大きなキッカケや後押しが必要で、そのキッカケによって決断したり、それを受け入れる準備をする。気がつくと周りがそこへと導くためのアシストをしていたりする事が往々にある。そこへの新しい道のために、周りの様々な事や状況が何か大きな引力に引っ張られるように実現に向けてシンクロしていくように思える。簡単に言えば、新たな道へと進む時に感じる追い風。そういう時こそ動く時だと思う。そんなことを周りの人を見ていてふと思った。

逆説的に言えば、そのキッカケがないと、なかなか新しい道に進むということに踏み切るのは難しい。

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2011年12月30日

音を出す前と出した直後の動作

管楽器はリズムセクション楽器と違って1曲の中で最初から最後まで演奏することは殆どありません。必ず休符が存在します。当然長い休符も存在するのですが、そういう場合はマウスピースを口から離して楽器を下ろします。そして再び演奏する場面になったら楽器を構えてマウスピースを口に当てます。
管楽器経験者であれば、そんなの当たり前過ぎることだと思うと思いますが、実はその楽器を下ろしたり構え直したりする動作を第三者が見るだけで、その奏者のその音楽に対する「入魂度」が一目で判ってしまいます。つまり、曲のテンポ感で楽器を下ろしたり楽器を構える奏者は自分が演奏していない時もちゃんと「曲」に参加している為に自然とそういった動作にそれが現れます。その曲のテンポに合わせて吹き初めのブレスをとることが安定したサウンド(音)に直結するとボクは思っています。つまり、その逆もまた真なりということです。楽器の上げ下ろしなんてのはたかが1秒程度のことですし、才能と関係なく誰でも出来ることだからこそ、その奏者の無意識に行なっている「音楽」に対する取り組み方が露呈しまうので奏者にしてみると恐ろしいことです。ポイントを押さえて見たりするだけで第三者にバレちゃうんですよね。

「休符で音楽って作るんだよ」と、以前誰かが語っていたことを思い出しました。

一度身の回りのプレイヤーをこのポイントで観察して見ると面白いと思います。

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2011年11月27日

反体制派から体制派になってしまうこと

立川談志さんが亡くなってテレビのニュースや情報番組では毎日、談志さんの人となりを事細かく、彼と親交のあった人達へのインタビューを織り交ぜながら報道している。正直、どの番組も同じ内容。とはいえ談志さんを好きな私はついそれら番組を見てしまう。それが何かTV局の視聴率を上げることになっているかと思うと癪(しゃく)でもある。でも、談志さんをリアルに知らない人が彼を知るようになったとしたらそれは悪いことではない。しかし、これを機に落語を聞く人が増えるとは思えない。もちろん、談志さんの遺した談志さんのDVDやCDは沢山売れるだろう。それをきっと談志さんは喜ぶだろう。まあ、そんな簡単に世間が隅に追いやっていた文化が一夜にしてメジャーに返り咲くわけはない。

生前の遺言による戒名やスポーツ紙の見出しを「談志が死んだ(だんしがしんだ)」という回文にして欲しいという要望なんていうのは談志さんでしか出来ないし、それを実行したご家族の理解もスゴイと思う。これこそが談志さんの美学なのだと思う。

談志さんのフォロワーとなる落語家は立川流も含めてこれから益々出てくるに違いないが、談志を追い求めたとしても、それはただの亜流にしか過ぎないだろう。

談志さんは「落語」というものを愛していたし、彼のアタマの中には落語のことばかりだったと聞くが、それは文化としての「落語」を守ろうとかいう全体主義の発想ではなくてをあくまでも一個人が落語が好きという個人主義を貫いただけのような気がする。

談志さんは落語協会を飛び出して、協会と絶縁したのは「落語界」の為だとおっしゃってしたが、立川流の制度を含めて、彼の立ち振る舞いは極めて個人主義だったと思う。個人主義というのは自分のポリシー且つ自信がないと成立しないわけで、進んでいく道が少しばかり世間を違うと色々とやり難いことも承知でそれをつき通したことは私も表現者の端くれとしてとても感銘を受ける。

反体制派としては常に孤高で居たはずが知らず知らずに沢山のフォロワーが出来て最近では反体制派と呼べなくなってきていた自分の立ち位置を談志さん自身はどう思っていたのだろうか?「ざまあ見ろ」と思ったのか「つまんねぇ」と思ったのか。

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2011年11月09日

SNS

Facebook,Twitter,mixiなどのソーシャルネットワークサービスがコミニュケーションツールとしての役割が益々大きくなっているのは周知の通りです。最近になって特にこれらツールの利便性の高さを感じてます。自分にとってのSNSの入り口はmixiでしたがヘビーユーザーになればなる程、そのネットワークが拡がるというよりは閉じていくような感じに思えてきて昨年の大晦日に退会してしました。mixiに比べてFacebook,Twitterの方は風通し良く思えたのです。Twitterはアカウントを取らなくても誰でもTwitterに書き込まれたログを読むことが出来るという点が大きいかもしれません。Mixiでいうところのマイミクのような相互認証型ではなくて一方的にフォロー出来るということが情報収集といった面で重宝されるのだと思います。Facebookは基本的に本名でアカウントを取ることが原則なので他のSNSよりはもっと信頼性の高い情報を受け取ることが出来ると思いますし、疎遠になっていた知人と再会出来る確率も高いです。そして興味のある方とのコンタクトも匿名性の高い他のSNSよりは遥かにアクセスが高い安全性のもとで容易に出来ると思います。実際、私はこのオンライン上で面識のない音楽界の自分が一方的に知っている大先輩や見知らぬ後輩とでコンタクトが取れてオンライン上でコミニュケート出来ることは非常に有益なことだと思っています。勿論、これをオフラインへと繋げていかなければ意味はないと思います。それは膝を付き合わせて話しをすることがコミニュケーションの基本だと思っているからです。でも、こういうチャンスを生み出す可能性を持っているSNSはこれからもっともっと重要なツールになるのだと思いますし、益々利用しようと思っています。でもこれに伴って常にネットワークがオンでないと不安になってしまうという副作用が付き纏います。何れにしてもオンラインとオフラインのバランスを上手く取ることが重要なようです。

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2011年11月08日

ベクトル

たとえ世代が違っていたり環境が違っていたとしても、共通の事例に対して同じベクトルを持っている同志ならば必ずうまくいく。それはベクトルの長さ、太さが違っていてもだ。ベクトルは価値観と置き換えても大丈夫だ。とは言え完全に同じ角度のベクトルを共有することなどあり得ないので少しだけ余裕のある広めの角度のベクトルを持つ方が実生活に於いては楽だと思う。その逆により鋭角であればあるほど純度は高くなる。バートナーが存在しないことならばそういう選択も考えられるだろう。パートナーと上手くやるにはベクトル云々ではなく、上手くハモれるかどうかが鍵だろう。

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2011年10月04日

昔の洋酒のCMのやうな

たまたまつけたTVで昔のCM の特集をしていました。昔のヒットしたCMが次々流れる中、感じたことは、どれもが上品な印象を持っていました。特に洋酒関係のCMはそこはかとなく上品で色気がありました。本来、CMは「つかみ」が優先され、目にひくものである必要があるにも関わらず、現在のそれ等のような「下品さ」や「過剰さ」は見られませんでした。それは今の製作者の質の低下ということではなくて、あくまでも時代の変遷による必要性によるものだと思います。今のCMは視覚的よりも聴覚に訴えかける類いのものが増えたような気がします。今は昔のように家族揃ってTVの前に集ってTV を観ているというよりは、TVはついてはいるもののTVを見るわけではなく、別なことをしているという状況だからこそ、リミッターを目一杯かけて目立つ音作りをせざるをえないのかも知れません。先ずTVを見てもらわないと何も始まらないわけですから。またTV番組に関して言えば文字のテロップが常に画面に出ているので音声を消していてもバラエティー番組に関しては内容がわかります。これは視聴者に対する製作者の配慮なのかも知れませんが、私にとってみると非常に見づらいものになっています。こうやって皆がこぞって目立つものを作る為に情報を「盛ったり」「増やす」ことに終始することで、全体にリミッターのようなものがかかってしまって結局目立たなくなっているように思えてなりません。伝達行為に関して受信に興味を持ってもらう為には全てを開示したり、過剰演出することよりは、寧ろ少しだけ情報を抑えたほうが受信者が自らその情報を探すという行為を促して結果的には発信者にとっていい結果を導くような気がします。

あまり今回の内容と関係はありませんが、自分の音楽は昔の洋酒のCMのような趣のものでありたいです。

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2011年09月18日

寿命

自分よりも年下の知人の訃報がこんなにも短期間で沢山あると自ずと自分のピリオドについて考えないわけにはいかない。早すぎる死に対しては元来持って産まれた個々の寿命なのだと思うようにするようにしている。大病を患っていない身として、自分の寿命を知る由も無い。だからこそ今、自分に与えられている時間、チャンスは大切に、有効に使わないといけない。

と言うか自分が48年間生きているということが奇跡的だ。

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2011年09月07日

綴る

前回のブログにも書いたが、後輩の急逝を受け止めることが出来ない。生前に彼が綴っていたブログをあらためて読み直してみた。すごく久しぶりに仕事場で再開しお互いが帰省した際に呑みに行ったこと、この間のライブに聴きに来てくれたこととかも綴ったあった。普段、滅多に会うことがないからこそ、彼の「死」に対して実感が湧かないのだと思う。こうやってブログを読み返して「ああ、もう居ないんだ。。」とアタマの中で納得させるだけ。ブログを書くことが一般的になった今、この「ブログ」という存在は故人を知る上でとっても重要な媒体だ。そうやって「点」と「点」を繋ぎ合わせて「線」にすることが出来る。我々の業界に居ながらプロダクションやレコード会社、出版社などからの発信でなく本人が直接発信していることって、とても対外的に対しても自分に対しても一番ダイレクトなソースとなる。ブログを書くという行為は各々の価値観、目的に寄るものだけど、ボクは将来自分が居なくなっても、自分が存在していたということの証を遺して色んな人たちに自分という存在を思い出して欲しい為に、無意識にこうやって毎日ブログを書いているのかも知れない。それは曲を書いたり、自分のバンドで演奏することも同じことだ。

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2011年08月17日

プレイバック考

基本的にボクは自分の演奏を出来るだけ録音してプレイバックするようにしている。個人練習もリハーサルも本番も。それは自分の演奏をリアルタイムで客観的に判断するには難しいと思うからだ。特にボクのような色んなジャンル、環境下で演奏するものにとってそれぞれのシチュエーションで若干演奏自体も付加的要素も修正が必要になる。アコースティックなサウンドでPA 無しでの演奏は比較的自分の想像と実際の演奏の差異を大きく感じないが現在進行中のツアーのようなイヤホンモニターを頼りにする場合はかなりサウンドのイメージが違ってくる。アリーナでの演奏では当然会場で自分の生音が聞こえるハズもなく、スピーカーから出る音が全てとなる。そこでより良いサウンドを出す為にはそれなりのコツがある。例えばマイクテクニックを上手く使うこととか。
同じ環境下でもホーンセクションにおけるトロンボーンの音域や役割によって随分バランスが変わってしまう。これは常に演奏を録音してチェックして改善するという作業の繰り返し。その際、録音した音源がラインのものなのかエアなのかで随分ニュアンスが違ってくるので、PA バランス、特性をちゃんと理解しないと創意工夫が徒労に終わる。経験値がものをいう部分だ。

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2011年07月22日

まさに徒然。

プロとしてインスト音楽を四半世紀ほど関わってきてこのインスト業界に関して色んなバランスが変わってきていると実感する。特にバブル弾け、そしてリーマンショック以降、音楽のメディアがダウンロード系の台頭、メディアの販売形態の変遷によってパッケージの在り方、ライブの在り方の立ち位置が逆転していたような気がする。それはCD制作メーカーの弱体化にも起因することかも知れない。
一昔前はレコード、CDを発売した際、プロモーションの意味合いで発売記念と銘打ってライブをでっち上げるケースが多かったが、逆に最近ではライブの集客の為のツールとして音源を作るといったようなニュアンスの動きが見える。勿論、それはそれぞれが平等に必要不可欠なものではあるが、そのバランスが最近でが微妙なような気がする。暴言を承知で言っていまうならば、大手プロダクションのアーティストでない限りはCD制作費はメーカーが負担することで売り上げのロイヤリティの多くはメーカーに入ることになる。勿論、アーティストに対してもロイヤリティは派生するがそれは微々たるもの。それは当たり前の話で、お金を出している者がそれを回収しようとするのは至極当然のこと。インスト音楽を生業とする者にとってはCDのロイヤリティでは潤わない。結果的に先生業やポップス関係、TV関係のレコーディングやライブを行うことによって得る対価で生計を立てるのがもはや一般的なインストプレイヤーのライフスタイルのような気がする。また年々ライブでの収益が生計のバランスの多くを占めるようになってきているのも事実。しかもこんな景気のよくない時代に集客ということに関してアタマを痛めているプレイヤーも多いと思う。そこで必要になるのはライブの集客の為のプロモーションツールであるCD。非常に切ないが、もはやそれは作品であるとともにツールでもある。ライブをする以上にCDを作ることが気安く出来るようになってしまったためにCDのクオリティのバラツキが出てしまい、本来なら作るべきでないCDが巷に氾濫している。その手のものは作品というよりは、寧ろツール、アイコンと言うべきものだろう。でもそれが悪いということも一概には言えずなかなか難しい。CDも含めネットでの流通が細分化、特化することで流通に関する矛盾が発生している。アーティストなんてのは基本的に我が儘なものでとにかく常に自分のやりたい音楽を大勢の賛同者の前で披露したいもので、それがそのようになればいいが現実はそんなに甘いものではない。それはインスト音楽という売り上げ枚数でいうならばマエノリティにカテゴライズされてしまう分野にいる以上、自分のやりたいことと経済活動との折り合いの関係調整は果てしなく続くよ何処までも。

いずれにしてもCDはちゃんと作品として作り続けていきたいし、ライブでは大勢の方の目の前で最もリアル(現実)な音を体感して欲しい。何だか非常に当たり前のようなことを言っているがなかなかそうは簡単に行かない。もしも100%自分の思い通りにやりたければ自分が出資をしてCDを作り、ライブにおける赤字補填も全て自分が被る。その為に、他の部分でそれにかかる費用を捻出する。これしかないね。実は「村田陽一オーケストラ」のアルバムを自主原盤でリリースしてからの自分のスタンスではある。色んな人たちと作るということは、それぞれのポジションが違うだけに満場一致とはいかないもの。それは良い意味でも悪い意味でも妥協とも言える。まぁ、妥協が全て悪いということでもないが。インスト音楽に関わらず全般的にCD制作に関して大勢のスタッフが関わることで収益が増すとももはや言えないので大手メーカーではなくインディーズでの活路をわざわざ選ぶ人気ポップアーティストもいる時代でもある。いずれにしてもYouTubeやUstreamなどのツールの台頭でアーティスト本人がダイレクトにユーザーに情報を提供するするようになってきていて、それはある意味この時代に於いては最も正論のような気がする。

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2011年07月18日

水戸黄門

超長寿番組が幕を閉じることになったらいしい。視聴率の低迷。それに伴い不景気も手伝いスポンサーが降りることによって継続出来ないというのが一般的な理由。

自分が小学生の頃には祖母、両親と共に何となく見ていたが、積極的に見た事がなかった。とは言え、もう見られないかと思うと少し寂しい。個人的には圧倒的に東野英治郎の黄門様が一番馴染んでいた。

自分が見ていない割には、この番組の必要性を常に感じていた。それはある一定のニーズが常に存在していると思っていたからだ。つまり自分が黄門様位の年齢になった時もやっている類いのものだと思っていた。シニアの世代さえ黄門様を見なくなったということなのだ。

今も「水戸黄門」は必要だと思う。私は見ないけど。

必要だと思っているのだったら自らチャンと見て啓蒙しないといけなかったんだと思う。

こうやって直接自分にはあまり関係のない、でも必要なものが資本主義の流れで消滅していく。

これはテレビ番組に限った事ではない。

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2011年06月27日

ひかり

とかく最近ブレがちなのもめずらしく体調不全に因るところも大きいのだろう。「健全な身体に健全な心宿る」とはよく言ったものだ。

たまに、向かうべき方向を見失う時があるが、そういう時は、今自分が出来ることに対して真摯に取り組むようにしよう。

そしたら、その先に光が見えてくるだろう。

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2011年06月16日

天注組

今から24年前の1987年の新宿ロフトでのライブ。当時24歳。つまり今の年齢の丁度半分。この「天注組」というバンドは当時活動していたじゃがたらというバンドの交友関係から派生して参加させてもらっていた。勿論最年少。当時色んなバンドに在籍していたが結局将来的にビジネスで成功しそうなバンドに対して興味が薄れた。というよりは若気の至りからそのバンドに対して嫌悪感すら持っていた。そしてそういった類いのバンドを次々に脱退し、じゃがたらやこの天注組といったある種アンダーグランド的なバンドに魅せられていった。今の自分の活動しか知らない方はかなり意外に見えると思う。勿論、これらで生計が立てられるわけもなく、専らレコーディング仕事で生計を立てていた。つまり24歳ぐらいの時からスタジオミュージシャンをしていたわけだ。でも自分の音楽的な立ち位置は、こちらのバンドだった。今になっても今の自分はここが原点だと断言出来る。非常に精神性の高い環境だった。ここで学んだことが今の自分を形成している。楽器のスキルや知識なんてのはあくまでも後付けでどの環境でも身に付くことができるが、この精神性に関しては、いわゆる「お仕事」じゃなくこれらの「バンド」でなければ身に付かなかった。これがあるから音楽に対してずっと貪欲でいられるし、自分自身を音楽を奏でることに投影出来ているのだと思う。本当に貴重な映像だ。恥ずかしいけれども、24年前当時の等身大の自分がそこにいる。





日時: 1987年10月21日
場所: 新宿ロフト
Performers: 石渡明廣(gtr), 村田陽一(trb), 吉田哲治(tp), 時岡秀雄(as), 篠田昌已(ts), 早川岳晴(bs), つのだ健(ds), 千野秀一(key)
記録: 中尾勘二
Courtesy: 佐竹美智子, 石渡明廣,

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2011年06月14日

iTunesの使い方

ボクのホームPCには25000曲程度のデータが入っていて、それをiTunesでコントロールして聴いてる。勿論、iPhoneやTouch、Podにもそれは同期している。非常にiTunesは便利なツールだ。それによって一日中音楽に溢れる生活を送ることができる。そして通常、ボクの場合はシャッフルモードにしている。つまりアーティストやアルバム、ジャンル関係なくランダムに曲を再生している。だからラヴェルの後にクリムゾンの曲がかかることもある。それはなかなか刺激的で面白かったりする。でもこれはある意味、消極的な音楽の聴き方とも言える。

最近は積極的な曲の聴き方が減ってきていることに若干危機感もあり、就寝時には一枚のアルバムを曲順通りに聴くようにしている。「ながら」ではなく聴く行為をメインにするということ。実際そうしてみて感じることはやはりアナログ盤で制作されてその後CD化されたものを収録順に沿って曲を聴くことが非常に心地よいということを改めて感じた。アナログ盤はテクニカル面の事情でA面B面それぞれ20分程度の収録しか出来ない。つまりそれを一枚のCDに収録したとしても40分程度ということになる。これは集中力が持続出来る限界の長さのような気がする。CDは74分程度の収録が出来るが、74分間連続で音楽を聴き切るなんていうのは実際問題不可能に近いのではないのか?アナログ盤を制作する時はアルバム一枚としてのストーリー性を重要視していたし、実際、曲順を決めることは非常に慎重に考えられていた。そうやって制作されたものはやはりその流儀にのっとって聴くべきだと思った。

PCで音源をコントロール出来るようになって管理(検索)など音楽を聴くことにおいての利便性が高くなった。それゆえに非常に消極的な行為にもなりやすくなっているようにも思える。知らない間にツールにユーザーがコントロールされるという技術革新の進歩とともに起こる副作用もあるので注意しなければ。

音楽を74分間で1つのストーリーを作るのはコンサート以外で作るのはなかなか難しいと思う。自分がアルバム制作をする際は60分間以内の分量にするようにしている。データが沢山入ることは非常に有り難いことではあるが、鑑賞に適切な分量というのは間違いなくアルバム盤程度の分量だと思う。ジャズにありがちなアウトテイクを沢山盛り込むような意味では目一杯沢山の曲を盛り込むのももちろん価値のあることだと思う。コレクターにとっては非常に有り難い。(とはいってもアルバムのストーリー性は完全に崩壊するが。)

利便性が高いからという理由でほとんどmp3フォーマットの音源を聴いている人が殆どではないだろうか?実際、ボクもiTunesを介して聴いている音源はmp3だ。音質、音色に拘るプロ音楽家としては失格かも知れない。このmp3の音質がデフォルトになってしまうのはヤバい。制作者は
最終的に作ったCD音源をユーザーがmp3にエンコードされることを意識して制作しているワケではないので、やはり制作者の意図とは異なる音色、音質で大多数の人が聴いていることになる。着うた配信ダウンロードなんてのはその最たるものである意味、それは「音楽」ではなくそれは単なる「符号」「記号」なのだと思う。それはそれで否定しないが、ちゃんと聴きたい曲はやはりちゃんとCDで聴かなければいけないと思う。

とはいえiTunesの優れた機能は利用しない手はないので、用途に合わせてこのツールをちゃんとコントロール出来るようになりたい。

このツールとユーザーの関係は全てのことに当てはまる。もちろん楽器とプレイヤーとの関係も。

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2011年06月10日

シーソーゲーム

人は誰でも個人差はあれど「刺激」を求めるのではないだろうか?刺激を求めることでマンネリズムを打破したり現状の改善、軌道修正をするきっかけにもなり得る。手っ取り早く刺激を受けには非日常的なシチュエーションに自分の身を投じればいい。それは未開の地に1人で行ったり、誰も知らない集団、バンドに1人で入り込んだり。それはある意味、自分の抱えている物を全て捨てて丸腰で臨むということ。
自分はそういうシチュエーションを自分で作ってきた。その時は心臓が喉から飛び出してしまいそうな程、心臓がバクバグした。しかし結果的にそれが今の自分を作ってきた大きな要因になっていると思う。

自分には「安定」志向が全くないとは言えないが、「刺激」が自分の物を作る上でのいいスパイスになるのを知ってしまっているので、絶えず刺激を求めてしまうのかも知れない。

最初は刺激的だったことが、それを繰り返すことで、それが刺激的でなくなる。だから刺激を求めてエスカレートしていく。

非日常に身を投じ、それを一定期間維持すれば、それが日常になり、以前の日常が非日常になる。

だから永遠に「刺激」と「安定」の関係はシーソーゲームのようなもの。

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2011年06月07日

時間の流れと自分の行方

昨日訪れた「知林ケ島」の光景が未だ脳裏から離れない。人が殆ど居ない自然の場所に行くと時間の流れが普段の雑踏の時とは全く違う。ゆっくりゆっくり流れていく。それは瞬時にして変化するようなものがそこにはないからなのか?周りを気にすることもなく木々、動物、海、山はペースを乱すことはない。それらのペースは我々よりももっともっとスパンの長いサイクルのペース。そんな所に自分の身を委ねると自分が完全にその中に埋没するようだ。いくら自然があっても人間の暮らしがそこにある場所ではこういう体験はしない。


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そして住み慣れた街を離れて初めて着た場所でいつも思うことは、もしもこの地に産まれ育ったとしたら今の自分はどうなっていたのか?どんな人たちと関わってどんなことをしていたのか?もっと飛躍して「どんな人生を歩んできたか?」を想像してしまう。今の「音楽家」である自分に何も不満はないけれど、別の地で別の歩みをしていたとしたら、それはそれで幸せだったのかも知れない。特に時間の流れがゆっくりの未開の地で一生を過ごすのも幸せだったかも知れない。今の仕事を続けながらそういった土地に移住するのでは自分にとってはあまり意味がないかもしれない。全然今とは違う人生もいいかも知れない。そしてもしその地に住むのならゼロからスタートしたい。

とにかく昨日の経験が自分にはとても強烈で今自分は現実と妄想を行き来している状態だ。でもそれも悪くない。

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2011年05月26日

Intro

「前奏」
曲の導入部。つまりメロディに入る為のもの。曲の雰囲気を決定付けるとても大切な部分。編曲の良し悪しはイントロで決まると言っても過言ではない。
またいわゆるヒット曲はイントロが印象的、キャッチーなものが多い。

自分のセッションの時にイントロなしで、いきなりメロディを吹き始めることも多々ある。特に自分のオリジナル曲に関してはその傾向が強い。イントロで自分の思い描いているイメージと異なる演奏をされてしまうと違うイメージで曲が進行してしまうので、それを避ける為だ。

アレンジを生業とするキーボーディストやギタリストが初めて演奏する曲を迅速に理解し、それを踏まえた上で即興的に弾くイントロのフレーズでその人のアレンジのセンスが解る。

もちろん自分でもイントロを書く時は神経を使う。

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