2008年12月18日

チキンライス2

思うに、プロの作詞家が書いていないだけに、この「詞」は生々しくリアリティがある。

手法などのテクニックがともすれば、いろんな部分を作詞のセオリーなどの一般的な範疇で文体を整えたり、補正して「商品」にしていまう中、この詞はストレートに自分に伝わった。

それにうまくメロディをつけるプロの作曲家も更に凄いと思った、

見習うこと、再確認すること山のごとし。


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2008年12月17日

チキンライス

親孝行って何?って考える
でもそれを考えようとすることがもう
親孝行なのかもしれない

子供の頃たまに家族で外食
いつも頼んでいたのはチキンライス
豪華なもの頼めば二度とつれてきては
もらえないような気がして

親に気を遣っていたあんな気持ち
今の子供に理解できるかな?

※今日はクリスマス
街はにぎやか お祭り騒ぎ
七面鳥はやっぱり照れる
俺はまだまだチキンライスでいいや※

貧乏って何?って考える
へこんだとこへこんだ分だけ笑いで
満たすしかなかったあのころ

昔話を語り出すと決まって
貧乏自慢ですかと言う顔するやつ
でもあれだけ貧乏だったんだ
せめて自慢ぐらいさせてくれ!

最後は笑いに変えるから
今の子供に嫌がられるかな?

(※くり返し)

今ならなんだって注文できる
親の顔色を気にしてチキンライス
頼む事なんて今はしなくても良い
好きなものなんでもたのめるさ

酸っぱい湯気がたちこめる向こう
見えた笑顔が今も忘れられない

今日はクリスマス
街はにぎやか お祭り騒ぎ
でかいケーキもってこい
でもまぁ 全部食べきれるサイズのな

赤坂プリンス押さえとけ
スイートとまでは言わないが
七面鳥もってこい これが七面鳥か
思ってたよりでかいな

やっぱり俺はチキンライスがいいや

作詞:松本人志
作曲:槇原敬之
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2008年12月15日

表現と言語

1週間毎日18時から23時まで一緒に共にしたサンボーンバンドの動向がとにかく面白かった。

本番以外は基本的に皆楽屋にいるのだが、かならず1stセットと2ndセットの合間にリチャードやジーンのi-Podをラジカセに繋げて爆音でEW&F、シカゴ、JBその他あらゆるジャンルの音楽を流して皆で歌うという状況だった。(ちなみにサンボーンは隣の別室にドアを閉めて休憩)
他のメンバーは本番の時以上にその時間が盛り上がった。

本当に音楽は好きなのだ、みんな。


何が面白いかといえば、とにかく皆よく歌を歌うということ。しかも大声で。(笑)

皆、それぞれ個性溢れる歌声で、そのフレージングは本番での彼らの楽器を通したときのものと全く同じ。

それは当たり前でもあるが、彼らの場合、彼らの楽音には明確に言葉(word)がはまるようなシラブルを持つ演奏だ。

もちろん、それは「英語」

やはり、彼らの音楽の表現は「英語」がベースになっている。

そりゃそうだ。

じゃ、我々日本人はどうすればよいか?

やはり、多少なりとも英語が出来た方が確実に欧米人のような表現で演奏が出来る。

演奏のニュアンスを真似たければ、その人の基本的な言語を習得するのが上達の近道だろう。

例えば、サンボーンのフレーズは「英語」ベースからこそ、格好良く成り立つのだと思う。

上辺で彼のフレーズ(音符の並び)を日本語ベースの発音で演奏してもそうはならないだろう。

むしろ格好悪くなるに違いない。

(メシオパーカーのフレーズものその類いだと思う。)

つまり、ビバップのような定石フレーズでないソロのフレーズは、発音と音色、タイミングで全てカッコいいか悪いかが決まると思う。

リッキー達のように普段喋るようにそのまま演奏も出来るというのはもちろん、楽器のスキルがないとなりたたない。

あらためて、演奏することと言語の関係の深さを意識した。

だからといって全て「英語」に倣えではなく、「日本語」をベースにしていくほうが自分のオリジナリティに繋がるということもいうことが出来るかもしれない。

それは「洋」に対しての「和」とかいうような安易でシンプルな分け方ではないと思う。

またしても課題。

終わりなき探求。

まずは、声に出して歌ってみよう。

そういえば、会うたびにトロンボーンのニスルラングレンに「陽一、とにかくボーカルやってみれば?」と言われたっけ。

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2008年12月14日

大きさ

サンボーンさんと写真を一緒に撮って愕然とするのは、彼よりも僕の方が身長が高いのにステージ上では彼がとても大きく見える。
それは毎日、彼の背後で演奏をしていて感じたこと。

もちろん、演奏するときの姿勢もせいもあるけど、それ以上に彼の持つ「華」故であろう。

だからこそ、大勢のファンが彼を支持しているのだけど。

ここ一週間、何故、彼にはこんな凄い「華」「オーラ」があるのだろう?と考えていたけど結局自分なりの答えを見つけられず。

当事者が意識して出せるレベルの範疇ではない。

もちろん、彼の出す「音」がそうさせているに間違いないのはわかっている。

では、どうしたら、あんな存在感のある音が出せるのか?

それはテクニックの範疇か?????

それもあるけど、それ以上にメンタルな要因の方が多そうだ。

彼の今回のソロはアドリブというよりは、ソロのラインを彼なりに構築したものの延長上のものである。

つまり歌メロを歌うが如くだ。

バンドのハプニングにも対応しているのでバンドとの一体感もある。

作為的ではなく、とにかく自然なのだ。

1週間通しで1日2セットを息が切れることなく最初から最後まで歌いきる様を見ると、そのペースに自分がついていくと、ともすればこちらが最初に集中力が切れてしまうほどの圧倒的なもの。

彼は演奏に対して全身洗礼を捧げていてるが、1つ1つに無理はしていない。

無理をしていたら、こんな長丁場持つわけがないからだ。

だから、彼のその演奏は常に彼にとってアベレージの範疇であってあくまでも普通のことなのだと思う。

最終的には余裕があるのだと思う。

だからこそ演奏を楽しめるし、メンバーにも優しくできるのだと思う。

とにかく、自分に対しては定かではないが、他人に対して大らかであることは間違いない。

それが彼の大きなオーラを作る要因だとも思える。

こういうメンタルな部分の意識は、実は僕はあまり考えてこなかったので、考えるいいチャンスになった。

自分がスポットライトのある所まで移動しなくとも、自然とスポットライトが自分に照準を合わせて照らしてくれるのだとも思う。

:ブルーノート東京さまのご好意によりステージの写真を掲載します。(photo by Takuo Sato)
posted by YM at 23:55| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月06日

ココロのキズ

心に負ったキズは治癒するものとそうでないものがある。

上書き出来ることもあれば出来ないこともある。

ベルのキズは研磨すれば、凹んだものは叩けば直る。

心のキズは修復ではなく、その場を去るしかないような気もする。

それか無理矢理、接近して自分の感覚を麻痺させてしまうとか。



上書きは出来ないのだと思う。


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ベルのキズ

ボクが普段使っているトロンボーンのベルの内側には無数のキズがある。

引っ掻きキズだ。

ライブの際にマイクにベルを近づけ過ぎて、結局マイクをベルに擦ってしまうためだ。

年々、そのキズは減っているにしても最近でも無意識にマイクをベルに突っ込んでいることがある。

不思議なのは楽譜を吹いたり、ホーンセクションの時にはマイクに突っ込んではいない。

つまりボクの場合、アドリブを吹いているときは尋常じゃない位アッパーのようだ。

しかし最近はライブハウスでもあまりマイクを使って演奏しないのでベルの傷はあまりついてないと思う。
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2008年12月05日

それぞれの事情

複数で何か1つのことを協力しあいながら作っていくには、それぞれの共通の価値観の擦り合わせ、価値観の共有が必要になる。

共同作業が難しいのは、お互いそれぞれの事情、価値観があるからだと思う。
実際それが嫌で自分はリーダー不在のバンドはやらないようにしてきた。

自分がリーダーだと責任が全て自分に課されるが、その分、自分の理想像を追うことが出来る。

ある意味において、音楽に関して独裁であった方が健全だとも思う。

勿論、それはリーダーとしてメンバーの抱えている事情を無視するということではない。

民主的であることと独裁的であることは真逆とも限らず、独裁的に決められたことが極めていい内容のものだったら、それでいい。
posted by YM at 23:30| 東京 🌁| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月04日

楽器について

先日、取材を受けた雑誌のサンプルが自宅に届いたので、ざっといろんな方の記事を斜め読み。

各方面のプレイヤーさんが楽器の広告がらみで楽器のメカニカルな部分について熱く語っていらっしゃる。

試奏コーナーってのは基本、楽器屋さん広告の記事なので、その楽器について悪く書かれることはない。

かういう私はここ15年近くは楽器のマテリアル的な部分はあまり気に品しないようにしている。

もちろん、楽器の性能、造りの重要性はよくわかっているけど、それと同じ位自分の奏法のほうが気になるのだ。

20代には楽器を替えてみたり改造したりと色んなことを試して出した自分の結果です。

とはいえ、昨日のFNS歌謡祭で一緒だったスカパラ北原さんや椎名林檎さんのコンサートで一緒だったトロンボーンの数人の楽器をちょっと興味があって吹かせていただく機会があった。

細管テナーがあったり、太管テナーバス、バストロありと盛りだくさん。

どの楽器も非常に吹きやすかった。

実は、楽器を吹かせてもらうと、そのオーナーのスキルとかが如実に楽器に反映されて、ちゃんと(?)してる人が使っている楽器はちゃんとしてるこことが多いし、マウスピースも楽器もきわめてノーマルなセッティグをしてる。

それと、いきなりヒトさまの楽器とマウスピースを借りて吹くと自分の演奏のコンディションがよくわかる。(もちろん、それらの楽器が比較的状態がよくてスタンダードなセッティングの場合に限る)

スムーズに吹けない時は、自分が楽器側に寄り添えないということ、つまり順応性が低くなっている時で、どこかしら自分の演奏法に問題がある。


だからたまに、バストロを引っ張りだしてみることもやってみたりする。

僕は滅多にトロンボーンセクションを組むことはないが、セクション全員が同じメーカーで揃える必要性を感じたことはなく、あくまでもプレイヤー次第だと思ってる。

究極は、どんな楽器を吹いても「核」となるその人のサウンドは出てくるからだ。


「この楽器じゃないと吹けない」というスタンスと「どの楽器でも状態が普通以上なものなら、楽器にこだわらずそこそこ吹ける」というスタンスのプロがいる。

つまり自分の使う楽器に関して「こだわる」派と「こだわらない」派と。

僕は間違いなく後者。

とはいえ、ある程度の期間で、いつもお世話になっている方にメンテナンスはちゃんとお願いしてますが。(あくまで道具としての手入れは必要なので。それは自分で楽器をいじる範囲をわきまえるということでもあります。)



*余談ですが昨日のFNS歌謡祭は音声のトラブルが沢山あったらしい。
こちらはOAでの状況を知る由もなくステージ上の音をイヤホンを通してモニターシステムでの音を聞いてるので全くわからなかった。

これだけの組数が入れ替わり立ち替わりで生放送、生演奏するわけだから音声チームもさぞかし大変だと思う。

とはいえ、バンドチームはどの曲も大きな事故に繋がるようなミスもなく、さすがだと思いました。

さすが腕利きのメンバーが揃うだけのことはあります。

だって、これだけの内容の準備としてバンド全員でのリハーサルは前日のゲネプロのみですから。

しかも、それぞれ2、3回通しただけです。

譜面が、アレンジがちゃんとしていてプレイヤーがちゃんと譜面を読みつつ、それぞれがそれぞれの音楽性を出せば短時間だったり悪条件でも
バンドマンの底力でやってのけます。

そういった意味で、昨日もバンドチームの各プレイヤーの底力を見ました。

posted by YM at 23:00| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月17日

人の人生。自分の人生。

このところ、色んな場所で色んな人と色んな話をする機会に恵まれた。

旧知の仲の人、初めて会った人、すごく久しぶりに会った人。

立場の似ている人、違う人。

住んでいる処が近い人、遠い人。

日本人、外国人。

同性、異性。

自分より年上の人、同じくらいの人、年下の人。

先輩、後輩。

自分の年齢のせいなのか、最近になってどんどん観念的な話題を相手にふってしまう傾向にある。

例えば「幸せって?」「最終的な目的は?」とか。

そりゃ問いかけられた相手は困惑するわ。

自分でもわからないし。

「人生」の「理想」って人それぞれだしね。

だから自分の理想が一般的だということはないし、どれが正しいか「数学」のように答えが一つだけではなく、人の数だけの「人生」のカタチがある。



そんなことは、誰でもわかってんだけど。

でもそれを真っ正面から見ないで、ついつい目を反らしてしまいがち。

それは答えが出ないから。


posted by YM at 23:41| 東京 🌁| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月12日

温度差

個人から複数の人が集まった場合、そこには集まった理由が存在する。

その「かたまり」に属する理由。

会社だったら、その会社が好き、業務が好き、その組織の中の人が好き、報酬をもらうため、、とか。

難しいのは同じ「かたまり」の中に居ても、このように属する理由が違ったり「かたまり」との関わり方の温度差が違うということ。

外側からその「かたまり」を見た時、その中の人たちは同じように見えたりすることもあるけど実はこのように参加理由が違うのでまるで違うこともある。

でもそこで共存しないといけない場合は「我慢」しないていけなくなる。

だから会社員やクラシックのオーケストラ団員は大変だなぁとつくづく思う。



団体に所属した場合、団体の構成員としての側面とあくまでも一個人としてのスタンスの両面で考えることになる。

前者は団体にとっての利益、後者は個人の利益。

どちらも欠けてはならない。

構成員間の「かたまり」に対しての意識、理想像が違うとそこには自ずと「温度差」が生まれる。

それが「かたまり」にとって刺激になったり活性化することもあれば、崩壊へ向かうこともある。

僕は「かたまり」以前にまず「自分」優先に考えたらいいように思う。

それがかえって、価値のある「かたまり」だったら「かたまり」にとっても有益に繋がるとも思う。

「自分優先」=「自分勝手」ではない。

本当に自分のことを考えたら自ずと「他」に対しては優しくなれるはず。

とはいえ、本当に自分にとって「プラス」になるような要素がない「かたまり」は一刻も早く離脱したほうがいい。新天地に向かうべきだ。

かくいう僕は、そういった不平不満を帯びた「かたまり」に属していないからそういったストレスはおかげさまで皆無だけど。
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2008年11月04日

麻痺する

同じ環境にずっと埋没すると自分の置かれている状況が見えなくなることが多い。

いかに恵まれているか。。

自分の努力によってその環境が保たれているならまだしも、そうでない場合は、その環境が悪化した場合、精神的にフレキシブルに立ち回れないだろう。

普段の何気ない麻痺しがちな「小さな幸せ」だとか「喜び」というのを大切にしないと。。

そうすることで、人に優しくなれる。


勿論、この恵まれた状況を自分で努力して造り出したものであれば、そのことについては堂々と胸を張ればいい。(もちろん、自分一人の力だけではないけど)

「麻痺する」ってことは「知覚」が出来なくなるってことだから、かなりヤバい。

「知覚」は生物が生きていく為の絶対的不可欠な「能力」「本能」だから。



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2008年10月29日

オトナの条件

      ーおとなの条件ー

・自分のしたことについて自分で責任をとるということ。

・被扶養者でないということ。


実は原則としてそれが全てなんじゃないかとおもふ。
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2008年10月20日

self management

実は今年はちょっとした転機となった。

ここ10年近くマネージメントをプロダクションに委ねていたのだが、それを今年になり解除した。

現在、仕事としての演奏活動、作家活動は新たなマネージメントにお願いをしているが、いわゆるソロ活動(ライブ、ソロアルバム)に関しては自分が直接やるようになった。

それによって皮肉なことに今年になって4枚のアルバムがリリースされたり、ランディブレッカー、デヴィッドサンボーンと競演というチャンスに恵まれることになる。

このブログを始めたのも、事務所を辞めたタイミングだ。

もちろん、事務所に在籍していたことのメリットもあったがデメリットもなかったわけではない。

ポップスのフィールドやボーカリストにはマネージメントは不可欠だと思うが、インストプレイヤーに関してのマネージメントの必要性の有無を常に考えながらきていたというのが正直なところだ。

おかげさまで僕はジャズという側面以外での活動もしているので、いわうる国内における音楽ビジネスを色んな角度から見て、検証する機会に恵まれている。

その結果、最も自分に合っている方法が現在のシステムだ。

残念ながらインストもののシェアはポップスのそれとは桁が違うほど小さい。

よって、その市場のみでビジネスを成立させようとすると自ずとそこに「歪み」が生じる。

その歪みに我慢できないからということと、幸いなことに色んなタイプの音楽が好きなのでインストのみならず歌もののサポート、レコーディング、TVも演奏、アレンジをすることで結果的に経済的、精神的安定がそこに産まれる。

だからこそ、自分のソロ活動においては誰からも指示されることなく好きにやることが出来る。

事務所に入っていた時も実際、ソロのライブブッキングはマネージャーではなく本人が直接やるというのが実状だった。それはマネージャー、事務所を非難するわけではなく、音楽ビジネスの常識に乗っ取って行くとそういう風になってしまうわけだ。

簡単に言ってしまうと「商売」にならないことには会社としてフォローできないということ。

全くもって、それが資本主義の原理だから仕方ない。


今回のSolid Brass@浜松も自分でメンバーのスケジュールを合わせ、会場探し、会場を貸していただく方と細かな折衝、メンバーへの新幹線のチケッティングも含め、全て自分で行った。

ある意味、これは自分にとってビジネスという範疇ではなく、あくまでも「おとなの遠足」「趣味」の領域を越えないものだったので全く苦にならなかった。

今回のコンサートの反響があまりにも大きくてびっくりしている。

それとともに驚きだったのは、もう17、8年続けていてCDも数多くメジャーレーベルからリリースしているにも関わらず、このバンドの知名度の低さだった。

名前は知っていても音を具体的にイメージできている人が圧倒的に少なかったということ。

もちろん、ライブ活動はほとんど都内でしか活動していないので地方まで浸透しにくいということは理解できるが、思った以上に浸透していなかった。

だからこそ、我々の演奏を目の前で見て驚くわけである。

初めて見たお客さんの目が点になっているのが手に取るようにわかった。

それは非常に嬉しいことだし、CDを出し続けることと同じくらいにライブをやらないとリスナーを説得できないとも思った。

CD制作は基本的に費用はレコード会社が負担することが多く、マネージメントとしては損しないが、ライブとなるとマネージメントが制作をする関係で興行自体が赤字になることが大きいのでマネージメントとしてはライブをすることのプロモーションというメリットよりも経済的な負担というデメリットの為にライブをやりたがらなかった。
だからCDを作りっぱなしという状況が続く。


自分の「音楽」を曲げずにやり続ける方法として、こういったプロジェクトをビジネスベースに乗せず、それ以外の部分でビジネスとするという方法を僕はもう20年以上続けている。

だからこそ、僕が主宰しているバンドは解散はないし、メンバーチェンジもしない。

これは相当自慢。

特にSolid Brassはメンバーが一人欠けても活動しないというスタンスを結成当初から貫いているために、おいしいプロモーションも断ってきた。

でも、今回のランディブレッカーとの競演の話をいただいた時、普段なかなか揃わないメンバーが全員揃った。

もちろん、メンバーが一人一人調整をくれた賜物以外何者でもない。

しかし皮肉なのは事務所にいた頃は1年間で1、2日しかメンバーが揃わず年間1回しかライブが出来なかったSolid Brassが今年は5回出来たということ。

そういう「タイミング」「巡り合わせ」ということを実感する。

毎回、ライブのブッキングの為に僕がメールや電話でメンバーに連絡、調整したことが全く苦にならなかった。なぜなら、これは上質な「音楽同好会」の集まりだから。



そういうことを体験し、ある決断をした。


来年早々、村田陽一オーケストラのデビューアルバムを自費で作るということ。

このオーケストラは結成17、8年にもなるがCDを作る機会が恵まれなかった。

というか、作ってくれる人を待っていたが誰も現れなかった。

このパブリックイメージによって、「商品」になりにくいカタログをメーカーは判断したのだろう。

まあ、それは理解できなくはない。

それを実現する為に、音楽性を曲げて陳腐なカバーをやる気もさらさらないので、このバンドに関しては自分で出資してアルバムを作ることにした。

なので正真正銘、どこかでフィルタリングのかかったものにはならないということ。

こんなこと書くと過去のアルバムは「音楽性」優先ではなかったかというと全然そんなことはなく、その頃と現在とはレコードビジネスの形態が変わってしまったため現在おいてはメジャー優位が全てではないということ。

今後メジャーとつきあわないということではなく、作ろうとする音源のタイプによると考えている。


ミュージシャンが事務所やレコード会社に所属することで、最後まで一緒に責任とってくれるということはないし、心中してくれるわけではないということを強く感じる。

だからこそ、今の時代は、よりSelf Managementが出来ないといけないと思う。

なぜなら「自分」のことだから。




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2008年10月13日

Meaning of .......

目の前にあるものをがむしゃらに消化している時はそのことの意味を考えない。

そのことをする意味を深く考えない。

忙しくすることで、それについて考えることを棚上げする。

それはいいのか悪いのかはわからない。

それなりに解答がでる場合もあるが、出ないものもある。

本当は出ないのにそれなりに、へ理屈で無理矢理に解答を出すこともある。

そのほうが楽だからかもしれない。

究極は、自分が「生きる」意味。頑張る意味。

一体、ひとは最終的に何処に向かおうとするのだろうか?

もちろん、それは一般的なことと個人的事情で若干違ってくるだろう。

この一般的というのは、いわゆる「道徳(モラル)」「慣習」に基づくものだ。

個人的はそれに対して反モラルだったりすることもあるだろう。

でもそれが本能、本質だったりするのかもしれない。

いづれにしても「意味」を考え始める時はロクな時でないのは確かだ。

そんなことを考えることが最終目標ではないからだ。

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2008年08月29日

カタチ

ひとそれぞれ同じことを思ったり感じたりしても、それについて表現した瞬間からあたかも違ったものになってしまうようなことが多々あると思う。


「カタチ」にする為には、「表現力」「スキル」(例えば、相手に気持ちを伝える時の言葉の選び方、語彙数)が必要になる。

だから、たとえ同じことを思っていても表現する者によって「カタチ」が違ってくる。

だから本質は一緒なのに「カタチ」が違うものが出来上がってしまうことがある。



「カタチ」は、その人が出した一つの結果。

でもあくまで「カタチ」は表面的なことであるから、それを構築した根幹を探る必要がある。

「カタチ」は違っていても、本質は同じな場合もあるし、「カタチ」が相似していても、本質、根幹の違うものも沢山ある。

要するに、その根幹を見つめることができる「心眼」「直感」
「分析力」が求められているもかもしれない。


「カタチ」は「表現(力)」の一つの「カタチ」
posted by YM at 14:26| 東京 ☁| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月16日

賭け

いわゆる「ライブハウス」と「ジャズクラブ」

これ似て非なるもの。

前者はその日に演奏する人を聞く目的でお客さんが来る場所。

後者はもちろん演奏者目当てに来るお客さんもいるものの、その他に
演奏をBGMとして、つまり演奏を二次的な感じで食事やお酒を楽しむ目的でお客さんが来る場所。

このように自分なりに理解している。

もちろん、これはかなり乱暴な分け方なのでこれはあくまでも極論ではあるけど。

だから、僕はいつしか後者に分類されるような場所では演奏しなくなってきていた。

そして、「例のこと」が起こった。

それは大阪2日目のこと。

我々の演奏中にあからさまに演奏を聴かず、我々の演奏に関係のないことをTPOをわきまえずに大声で話しているお客さん一行が後方シートに居た。

それこそ、僕らの演奏の音量が大きくなると同じくして大きな声になっていった。

明らかに演奏を聴いていない。

聴かないのは、その方々の自由なので別にいいのだけど、他のお客さんにとっては迷惑千万この上なし。

不快な気分になりつつ、次のバラードを演奏する際、さてどうしようかと考える。

昔の僕だったら、彼らの場所まで言って「出てけ」とか彼らの胸ぐら掴んでいたかもしれない。

だって、身を削ってこちら演奏してるのだから。。。。

(でも、それはお客さんにとっては関係のないことなんだけど。)

で、今回はちょっとした「賭け」に出た。

とりあえず、その前までトロンボーンを吹く時に使っていたマイクをスタンドごと脇に置いて、マイクを使わず生音の状態でフルトーンで吹き始めた。

そりゃ、相当の音量だったはず。

もちろん、そのお客さんを含めて会場に居た人たちはびっくりする。

今までの数倍の音量で、しかも音場が変わり、トロンボーンの音はスピーカーからではなく、100%トロンボーンのベルの先端からしか出ないのだかから、僕が吹き始めたとたん、こちらを凝視した。

意識をこちらに向ける為の手段としては成功。

次は、曲の最後まで自分の音楽、演奏を惹き付けておけるかということ。

もちろん、音楽的に展開していくので最終的にはピアニッシモで演奏もした。

ここで、無駄話が聞こえたら自分の音楽の「引力」が足りないのだと反省しようと思っていた。

しかし、ありがたいことに曲の最初から終わりまで、先ほどまで最後部に座っていたお客さんの喋り声がステージまで聞こえていたのが、一切「無音」になった。
まるでコンサートホールのごとくだ。

もちろん、こういうやり方は非常に稚拙だということもよくわかってはいるが。

でも一旦、こちらを注目してもらって、それを最後までこちらに惹き付ける能力は表現者としては必要不可欠なのかと思った。





posted by YM at 00:28| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月08日

究極の独占

究極の独占は、それを破壊することかもしれない。
勿論それは極めて一方的で独りよがりだけど。
posted by YM at 06:59| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月30日

価値観

昨日書いた「音楽の優劣」についてもそうだけど、結局、人それぞれの「価値観」が違うから、厄介なことが起こる。

でも「価値観」が違うからこそいいことももちろんある。

いや、いいことの方が多いのかもしれない。

ことあることに、「価値観」について考える。

自分が対人、団体に対して善かれと思ってしたことが、実は、それらに対して善くなかったということがたまに起こる。

一般常識で考えたら「良い」ことだと思っているだけに、相手にその真逆のリアクションなどとられると、自分のアタマが混乱するのが解る。

この一般常識の「一般」というのが曲者だ。

じゃ、どうする?

結局、突っ込んだ論議、思考をすればするほど、相手と離れていく。

だから、もっと浅くなる。

浅くしないと壊れる。

一度壊すことで、それが「縁」のあるものであれば再構築するだろう。

「価値観」なんてのはきわめて個人的なことだから、「価値観」を強要したり、説いたところであまり意味はない。

「価値観」を司どるところはもっと感覚的なものなのかもしれないと最近思う。

だから、現時点で「価値観」の異なる人同士はあまり深い話をしても意味がない。

もしかしたら、後に「価値観」が似てくることもあるかもしれない。

でもそれは、あくまで、個人個人の問題であって、擦り合せていくものでないと思う。(本質的に)


「価値観」の似た者同士は集いやすい。

でもそれは結構「浅い」ところで。

「価値観」の違うもの同士がうまくやって行く為には、相互に「許容力」「理解力」が必要だ。

それが「諦め」「妥協」であってはいけない。
posted by YM at 17:07| 東京 ☁| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月29日

音楽に優劣をつけるのなら。

もうじき北京オリンピック。

そして高校野球。

実はスポーツには興味がないのでおそらく積極的に観戦することはないだろう。

スポーツ大好きな人たちは、勝敗に一喜一憂することでしょう。

でもスポーツや囲碁将棋等は勝敗が明解なので、当事者も観戦する人も、それなりに結果に対して納得いくだろう。

それに対して、音楽、絵画、文芸、などの芸術関係のコンクールとなると、その「勝敗」のジャッジは難しくなる。

なぜなら、主観的要素で成り立っている分野だからだ。

だからこそ、コンクールごとにちゃんとコンセプトをきちんと打ち出しておかないと益々、混乱する。

だとえば。このコンクールはスキル優先、音楽性優先、独創性優先、パフォーマンス優先、、、、、とか。

とはいっても結局は様々な要素を総括した総合力を問われるのも重々承知。

例えば、演奏に対して積極性はないけどこじんまりまとまっているのと、少々演奏は雑だが演奏に対して、音楽に対して積極的なのとどちらが「採点」という意味で優勢なのか?

きちんと譜面どおり忠実に再生するのと、自分たちがアイディアを出して膨らますのとどちらが「有利」なのか?

結局は、それらの「優劣」をつけるものの判断による。

じゃぁ、その「優劣」をつける人たちは、きちんとコンセプトを持って判断しているのか?

その人たちが複数の場合、このコンクールのコンセプトに対して共通の「判断基準」とか出来てるのかな?

コンクールの内容如何によっては、その出場者のそこにかけるエネルギーや努力を踏みにじる事になるから、そういった「判断」をする人、「優劣」を付ける人はすごく責任があるのですよね?

でも、そういった不条理なことを含めて任意でコンクールに出場するわけで、そういったことが嫌なら出場しなければいいというのも事実。

僕だったら、コンクールとか出ないでコンサートを沢山企画して楽しくやることを勧めるなぁ。


でも、団体(オーケストラとか)のオーディションとなるとそれは全く別。
それは一種の就職試験なのでクライアントが独断で決めても何の問題もない。
つまり、その団体において有益な人材であることが最優先されるので、その結果、外野から「?」という意見が出てもそれは関係ないし、ある意味独断であるべきだ。

つまり「コンクール」と「オーディション」というのは似ているようでいて全く性格の異なるものだ。

だからこそ、コンクールにはそれぞれサブタイトルつけるとか前文付けるとかして、もう少しわかりやすいコンセプトや基準を細かく決めて、それを掲げて欲しい。

そうすれば、(優劣をつける、彼らが出した)結果に関して、少しは納得出来る人が増えると思う。


こういう曖昧な価値基準の分野だからこそ、ここで商売しようとする人が群がるのだと思う。

「音楽」することとか「絵」を書く事って自分が楽しければいいじゃん、アマチュアならば。

その楽しさを奪っちゃ駄目だよな。

可能性を狭めるよね。




だって僕は楽しいもん、音を紡いでいくことが。




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2008年07月21日

システムと実践

明日、プロのミュージシャンにレッスンをする。

プロのプレイヤーからのオファーは珍しい。

どういうことを学びたいのかが非常にクリアなのでこちらとしても、「ラク」かもしれない。

いわゆる、「アドリブ」をおしえてほしいという類いの内容ではなく、ジャンルにおけるアプローチについてがメインとなる。

僕のところにレッスンを受けたいという方のほとんどは「アドリブが出来るようになりたい」という方が圧倒的に多い。

いつも言うことは「アドリブ」に関してはシステムをある程度理解することが突破口になるので、別に同じ楽器の人に習う必要はない。

しかし、大概困るのは、そのシステムを享受しても、それを具現化するだけの楽器に関してのスキルがないことが多いこと。

ちゃんと楽器がコントロールできれば、システム、感性をそのまま楽器で演奏すればいいだけなのだが、システムを理解しても、「音」が出ないのでは話にならない。

逆に、楽器が上手でもアイディアがなくてはだめだ。


バランスです。



アドリブや理論なんてのは、ある意味「数字遊び」と同じ次元だと思うので紙と鉛筆さえあれば楽器を使わないでファミレスで教えることだってできる。

でも、楽器のスキルに関しては地道に体の中に叩き込まなければならないし、怠ければすぐ出来なくなる。

システムは一度習得すれば、その後特別な訓練などしなくても忘れてしまうことはない。

もちろん、もっともっと踏み込んでみるとさらに深いところまで到達できると思う。


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