2017年04月07日

今を一所懸命生きないとなぁ

ボクが「音楽」に偏ることなく向き合うことが出来るようになったのは20代後半に「じゃがたら」というバンドに参加したことが大きなきっかけだ。バンドとしてのサウンド、エンターテインメント、ポピュラリティのバランスが良くなり、さてこれからだ!というタイミングでメンバー3人が亡くなってしまうわけだが、その時にボクの喪失感といったらない。
この身近な仲間が志半ばで逝ってしまうという状況の中、色んなことを考えた。
「生」を受けたものはいずれ必ず「死」という現実を免れることは出来ない。やはり生きているうちに自分のやりたいことをやっておくべきだと常日頃から思っている。知人の訃報を聞く度にそう思い、それをこういったポストに書き記している。書き記すことで自分に対してそれを言い聞かすという意味が大きいのだと思う。
我々表現者は自分の死後も、自作や記録メディアに遺されたパフォーマンスが自分の分身、また子供としてフォロワー達に影響を与えることが出来る可能性を持っている。それはとても有り難いことだ。
でもやはり自分が生きている間に、そういう「実感」を味わいたい。
いいものを「遺す」という意識も大事だけれども、やはり常に「今」を懸命に生きないといけないと思う。(まぁ、「今」を懸命に過ごすことでいいものを「遺す」という結果を導くことになるのですが)

いずれにせよ、焦らず、今を一所懸命生きないとなぁ、せっかく奇跡的に51年間も「生かさせて」いただいているのだから。

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posted by YM at 19:58| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

「あーもうどーでもいいや」

時と場合によっては「あーもうどーでもいいや」っていう風に思うことが出来るテクニックはやはり必要なんだなぁと。
(バカ)生真面目(堅物ともいう)故に、そこが欠落気味の私。物事に対してマクロ、ミクロ、両方の観点で見ないと実像を掴めない。

人それぞれ価値観が違うということをついつい忘れてしまう瞬間がまだある。相手に対して、自分の価値観の押しつけは必ずしも
それがその人にとって正しいわけでもなく。まぁ何でも「押しつけ」られて気持ちのいい人なんて誰もいない。

老眼は目の焦点を合わせる筋肉の力の低下が原因らしく、それを
防ぐ為には交互に近くを見たり遠くを見たりすることでその筋力の低下を防ぐことが出来るそう。

長時間、PC作業をする為に最近ではPC眼鏡を着用しているが、試しに眼鏡を着けずに作業したらめちゃくちゃ目が疲れた。知らないうちにPC眼鏡を着けているということが当たり前のことのようになっていると感じた。

大概のことは正反対のものと1つの対になっている。その対になっている対極のどの位置にそれらがあるかだけのこと。これはとても相対的なこと。

posted by YM at 01:39| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「閉じる」

人との「出会い」や「別れ」のタイミングや順番によって、その人生は多く変わるのだなぁと。それを「縁」と片付けてしまえばそれまでですが。

いずれにしても自分自身が「外」に対して「開いて」いないと「出会い」はないし、本来入って欲しいものが、あちらから入ろうとしているものをわざわざ自ら逃してしまう。
無理に引き寄せようとするよりも自らが「開いて」いることが大切。

また「閉じる」ことで自分のものを守ろうとしても自分にとって大切なもの失うものは失うし、去って行く。

posted by YM at 01:36| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【備忘録】

(演奏に関して)
自分の力3割程度使わずに7割で演奏する方が音色、音質、ニュアンスがより良く発揮出る。
それゆえに絶対量の底上げが必要。

(編曲に関して)
編曲する時に最も大事なのは幾つかの選択肢の中から最も適した「音」を選びプレイヤーが演奏することをワクワクさせるスコアを提供する。(プレイヤーが楽しめずに奏でた「音楽」をオーディエンスが楽しめる確率は極めて低いと思う)

選んだ「音」が本当に必要なのか?を常に問う。
理論上間違っていないものが全て「正解」とは言えない。
スコアに書かれたその音に「必然性」がないと、それは最良の「選択」とは言えない。

過去の優れた編曲者は皆、小編成ででも和声の豊かな立体的なオーケストレーションをし、プレイヤーに演奏することをワクワクさせるスコアを提供する。こういうプレイヤーの「気分」が全体の演奏に多く反映される。「おれ一人くらい、このパートを演奏しなくても体制に影響ないんじゃない?とプレイヤーに思わせるスコア書いてはいけない。


一般的な「禁則」を破るアレンジは、それらを熟知した上で敢えて書く場合と、それらの知識を持たずに書いた場合では全く意味合いと結果が違ってくる。
例えばそれを演奏するプレイヤーとの信頼関係、それに伴う「出音」が。
posted by YM at 01:03| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「がならない」こと、そして「おおらかに」

貞夫さんのビッグバンドに於いて、常に貞夫さんがメンバーに対してディレクションすることは一貫していて、音量が大きくても「シャウト」しないこと」「がならない」こと、そして「おおらかに」。
それらを留意して演奏すると自然と無駄なチカラが抜けて音が「響く」ようになると実感します。

毎回、貞夫さんのカウントによって曲がスタートするのですが場合によってはかなり同じ曲でもテンポが違うカウントになったりします。
特に今晩演奏した「Eye Touch」は今までにない程のスローテンポでした。普通は曲のイメージが大きく変わってしまって良さが半減してしまいのですが、今回のイエロージャケッツのリズムセクションはカウント時と同じテンポでそのテンポでの最適なグループを提供することでこの曲の新たな魅力的な表情を見ることが出来ました。このカンジがとても「Jazz」だと感じました。

レパートリーの殆どが貞夫さんのオリジナル曲でしたが、貞夫さんのメロディがテンポを限定しないフレキシビリティ溢れる曲だからというのも大きな要因かも知れません。

ブラジルテイストの「Simpatico」での貞夫さんのビートよりもちょっと早いタイミングで歌うのは、正にジョアンジルベルトの「あれ」と一緒。(歌う=レイドバックする)の反対のアプローチです。

まだまだ学ぶことが尽きません。

posted by YM at 01:00| 東京 ☀| 思ふこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする